エステル記 3:8-4:2 ; ぺテロの手紙一 11:8-16
ペルシャ王宮で高い地位を得たハマンに対して敬礼を拒否したユダヤ人モルデカ イ。ハマンは、当然、憤り、反撃に出ます。その反撃ぶりも尋常ではありません。 モルデカイ一人を殺すのでは足りず、ペルシャ全土に住むユダヤ人全体を皆殺しに しようと企てるのです。ユダヤ人大虐殺の典型的な事態へと展開します。これはま た、キリスト者も含めて、宗教弾圧がどのように起こるのかを考える上でも、その 諸相を明らかにしています。 ハマンは自分に敬礼しないモルデカイがユダヤ人であることを知らされて、民族 浄化という手段へと走り、決行の日を「くじ」によって決めます。私憤を公憤にすり 替え、これを神の意志によるものとしているのです。自分の傷つけられた誇りを癒 すために、社会の偏見をかきたて、宗教を利用し、多くの命を抹殺する、この構図 は、どこにでも見出される構図です。 その際に利用されたのが「律法」であったことも注目しなければなりません。 「彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません」 と。確かに、ユダヤ人は律法の民、神との契約の中に生きる民として独自の生き方 をします。しかし、本来、律法は、神を愛し、隣人を愛することを通して、すべて 地に住む民の祝福の基となるために与えられたものです。地上のどこに置かれても、 その律法に従う生き方において、神と人との間の正しい関係が指し示され、証しさ れるべきはずのものです。しかし、現実には、まさに律法の民である故に、迫害と 大虐殺の危機を迎えなければならない。平和を造り出すはずの戒めが、大いなる混 沌と闇を造り出す。この世の現実です。神を神とし、人を人とする、神と人、人と 人との関係を愛によって結びつける律法、信仰、敬虔の本来の姿が、これほどに歪 むのです。 事態はもっと複雑です。ハマンとモルデカイの確執は、モルデカイのユダヤ人と しての敬虔さ、正しい信仰によってもたらされたものではありません。嫉妬とプラ イドによる人間的な争いに過ぎないのです。それが私憤が公憤にすり替えられる過 程で、律法の民であることが口実として用いられ、民族撲滅へと拡大されているの です。この実に人間的な状況において、真の救いをもたらすものは何かを考えさせ られます。主イエス・キリストの十字架に至る「僕の道」の深い意味を、これによ って悟らされます。
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