エステル記 4:1-17 ; マルコによる福音書 14:32-42
ペルシャの王宮で重く用いられたハマンに対して頭を下げなかったユダヤ人モル デカイ。その故に、ハマンの怒りをかってモルデカイ一人ではなく、ペルシャに住 むユダヤ人全体が絶滅させられるという途方もない危機。「モルデカイは衣服を裂 き、粗布を身にまとい、灰をかぶり、都に出て行き、苦悩に満ちた叫びをあげた」 のは当然です。さっそくそのことは王妃エステルの知るところとなり、モルデカイ との間に人を介して緊迫した対話が繰り広げられます。王のもとに行って自分の民 族のために寛大な処置を嘆願するように求めるモルデカイ。王の許可なしに王宮の 内庭にはいると死刑になるという王の定めがあること、ただし、王がその者に杓を のべれば死を免れることを伝えるエステル。この時、モルデカイがエステルに語っ た言葉は、この書の心臓です。「他のユダヤ人がどうであれ、自分は王宮にいて無 事だと考えてはいけない。この時にあたって、あなたが口を閉ざしているなら、ユ ダヤ人の解放と救済は他の所から起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるに違い ない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」これ までユダヤ人であることや身元を明かさないで王妃になったエステルに、身元を明 かし、王宮の定めを侵して自分の民族のために働くようにとの強い促しですが、 「この時のためにこそ」という言葉は、激しい迫力でわたしたちにも迫ってきます。 この場合の、「この時」は、この時、この場所、この位置に自分がおかれているの は、自分が定めたこと、人間の計画したことではなく、神の摂理によるという信仰 が表されています。大きな苦難がわたしたちの世界を襲う時、自分一人の苦しみか ら逃れるのでなく、他者と連帯し、それぞれがおかれた位置で全体のために責任を 負ってそれぞれの任務を果たすことへと促すのは、まさに「この時」のこのような捉 え方が必要です。道徳的人間が形成されるための基盤にはこの意識があります。 エステルの決心、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でい ます」に至るために、どれほどの祈りが必要であることか、主イエスのゲツセマネ の祈りを思い起こさせます。
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