4月10日
2011年4月10日

「 ハマンの驕り 」

エステル記 5:9-14 ; コリントの信徒への手紙一 1:26-31


 王と共にエステルの酒宴に招かれ、上機嫌で家に帰り、妻や親しい友人たちに自

分に与えられた栄誉を自慢するハマン。しかし、このハマンにも誇りの病に傷つい

た心があります。王宮からの帰りに門のところでユダヤ人モルデカイに出会います

が、またもや自分に対して立ち上がりもせず、震えおののいている様子も見せませ

ん。この些細なこと一つで、彼が得た栄耀栄華は「そのすべたがわたしにはむなし

いものになる」と嘆くのです。

 このようにして、エステルの物語は二つの陰謀が同時進行することになります。

王と共にハマンを酒宴に招いて、ハマンを失脚させ、王にユダヤ人絶滅の布告を取

り消させようと企てるエステル。そのもてなしと笑顔の裏に恐ろしい陰謀が隠され

ています。片や、ハマンの方では自分に対して敬意を払わないモルデカイを、妻や

友人の進言に従って50アンマもの高い柱を立てて、明日にもそこにモルデカイを

吊るよう謀るのです。まさに誇りの病に取りつかれたデスペレートな人間の所業で

す。

 ハマンがエステルの酒宴から帰って妻や親しい友人たちに語っている言葉から、

彼が何を人生の喜びとし、また、心の痛みとしているかを知ることができます。

「自分のすばらしい財産、多くの息子、また、王から賜った栄誉、他の大臣や家臣

にまさる自分の栄進について、余すところなく語り聞かせた」というのです。「そ

の上、王妃エステルの酒宴に王と自分だけが招かれた、そして、明日も」と。物語

の読者は、ハマンの自慢の薄っぺらさを皮肉な目で見ることができます。その行く

末を知っているからです。しかし、その内容は、わたしたちが大切にしている誇り

とどんなに近いことか。ハマンの喜びは他者の痛みや隷属なにしはありえない種類

の喜びなのですが・・・。また、彼が痛みとしていることも、分かりやすいことで

す。これほどの権威と栄誉を得ていながら、たった一人の抵抗に、そのすべてが崩

れ去る栄光だったのです。その傷ついた誇りを癒すための道具が、「高い柱」であ

ったことに、感慨を覚えます。密かな暗殺ではなく、公然と恥をさらし、見せしめ

のための処刑道具、まさにこれは主の十字架の予型です。自分を神のように高いと

ころに置こうとする者が、それを阻む者への代償として立てる呪いの柱、主イエス

は、その罪を十字架において引き受けておられます。わたしたちの世界に、どれほ

どの十字架が立てられなければならないことでしょう。

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