4月17日
2011年4月17日

「 弟子の足を洗う 」

エレミヤ書 31:31-34 ; ヨハネによる福音書 13:1-20


 主イエスが十字架につけられる前の夜、12弟子とともに最後の晩餐をされました

が、ヨハネによる福音書では、主イエスが食事の席から立ち上がり、弟子たちの足

を一人一人洗われたことを伝えています。この印象に強く残る出来事を記念するた

め、代々の教会は「洗足の木曜日」として受難週の中で特別に覚えてきました。主

イエスはこれによって「教師であり主であるわたしがあなたがたの足を洗ったので

あるから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と教えられました。しかしこ

れは、ただ謙遜な生き方を教えると言うだけではなく、主イエスの十字架の死の深

い意義を教えていることは明らかです。それは、「世にいる弟子たちを愛して、こ

の上なく愛し抜かれた」ことのしるしとして行われたことであったからです。

 主イエスが弟子たちの足を洗ってペトロのところに来た時、主イエスとの間で交

わされた言葉が、この出来事の意味の広がりを教えています。「あなたがわたしの

足を洗われるのですか」、「わたしの足など、決して洗わないでください」、「主

よ、足だけでなく、手も頭も」。これによって、先ず、主イエスが考えておられた

行為の意味とこれを受ける人間ペトロが理解することとの間には大きな隔たりがあ

ることに気づかされます。驚きと恐縮、それは自然の反応ですが、主はもっと大き

なことを伝えようとしています。主イエスは「足を洗う」ことを通して弟子たちと

御自身とを関係づけ、それ以外の在り方で彼らの主、また教師としてあることをな

さらないという決意が示されています。さらに、洗足はしるしであって、これを通

してしるしづけられていることは、全身の清め、すなわち、罪を赦し、罪から解放

することであった、ということです。主イエスは、弟子たちの足を洗うという行為

を通して弟子たちだけでなく、全人類と御自身との関係の在り方を示しておられる

のです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの

人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」と語られることと同じ

です。

 J.カルヴァンは、主イエスはどうして手や頭ではなく足を洗われたのかについ

て興味深い考察をしています。足は大地、この世と接する体の部分です。主イエス

はまず最も低いこの部分を洗って、生涯の終わりまで全身が清くなるように、天か

らの命にあずからせるために贖いの業を続けられるからだと言うのです。

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