4月24日
2011年4月24日

「 キリストと共なる死と生 」

出エジプト記 14:15-31 ; ローマの信徒への手紙 6:1-14


 洗礼は、主イエス・キリストを信じ、キリスト者として生きる初めでです。しか

し、パウロは洗礼について語るこの箇所で、洗礼は初めである前に終わりであるこ

とにわたしたちの思いを至らせます。しかも、その終わりは容易ならざる終わりで、

そこで用いられているのは最も激しく重い終わりを示す言葉です。「キリストの死

にあずかる」、「キリスト共に葬られる」、「キリストの死にあやかる」、「罪に

対して死ぬ」、と言葉が重ねられています。言うまでもなく、死は生の終わりであ

って、それ以上の終極はありません。悩みも、悲しみも、不安も、恐れも、わたし

たちの生を脅かすすべての終極が死です。「キリスト・イエスに結ばれたわたした

ちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によって

キリスト共に葬られ、その死にあずかる者となりました。」洗礼を受けるというこ

とは、キリストの死に合わせられて、わたしたちの生のただ中でわたしたちの罪と

死を受け入れることです。わたしたちの生が死に向う歩みであることは自然の理で

す。しかし、ここで語られていることは、この自然の理を認めることではありませ

ん。否、むしろ、洗礼の時は、この自然の理と反対の方向に向って歩み始める者と

なったことを意味します。神の御子、主イエス・キリストがわたしたちの罪のため

に十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活して天に昇られ、全能の父の右に

座しておられる、この低く降る歩みに合わせられたわたしたちは、死に向う生のた

だ中で、反対に、死から生に向う歩みへと歩み始めるのです。「わたしたちの古い

自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もは

や罪の奴隷にならないためであると知っています。」キリストに合わされて、確か

な終わりをもつ者は、また、新しいはじめをもつ者となります。「キリストが御父

の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生き

るためなのです」、「わたしたちは、キリスト共に死んだのなら、キリスト共に生

きることにもなると信じます。」この初めは、朝の空気に触れて気分を一新する程

度の新しさではありません、罪に対して死に、キリストと共に復活の命に生きるこ

とです。洗礼は、わたしたちがどれほどの意気込みをもってしても、キリストの死

の様と等しくなることはできません。主イエスご自身が聖霊によって新しくしてく

ださるその神秘にあずかることです。

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