エステル記 8:1-17 ; ペテロの手紙一 3:8-18
エステルの命がけの嘆願によって、ハマンは失脚し、柱に吊るされ、ハマンの家 屋敷はエステルのものに、またモルデカイはハマンに代わって王の印章の指輪をゆ だねられ、大きな権力を身につけます。しかし、エステルには残された仕事があり ました。ペルシャに住むユダヤ人を絶滅させよとの王の勅令は、まだ有効なままで す。そこで、エステルはハマンの考え出した文書の取り消しを涙を流しながら王に 嘆願します。「どうしてわたしの民の禍いを見過ごすことができるでしょう。どう してわたしの同族の滅びを見過ごすことができましょう」と。この美貌の王妃エス テルの命がけの嘆願、同胞の民を思う心情、愛国の至誠の志は感動的な情景です。 中世のユダヤ教のラビ・マイモニデスが「聖書の中で最後まで残るのはトーラーと エステル記だ」と言ったのは、この部分に感動してのことだったのでしょう。そし て、物語は予想通り、エステルの嘆願は王に聞き入れられ、モルデカイの思うまま にユダヤ人解放の文書が作成され、彼に託された王の印章を押されて、全土に通達 されることになりました。「王の名によって書き記され、王の指輪を押された文書 は取り消されることはない」のですが、先にハマンの出したユダヤ人絶滅を命じる 文書も同じようにされたものでした。今度も文書もそのようで、まさに「朝変改暮」 の場当たり的な政治の様相が露呈されています。モルデカイの手によって書かれた 文書は恐るべきものです。「どの町のユダヤ人にも自分の命を守るために集合し、 自分たちの民族を迫害する民族や州の軍隊を、女や子供に至るまで一人残らず滅ぼ し、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることを許す」というのです。「目には 目、歯には歯」です。 これをどのように考えたらいいのか、神の民に対する神の守りと祝福の奇跡とし て称揚すべきか、長く虐げられ迫害されてきたユダヤ人の傷ついた心を癒すカタル シス効果をもたらす物語なのか、いずれにしても、復讐は復讐を呼び、終わること がない物語であるのには違いがありません。聖書は旧約と新約をもって聖書となる ことを思えば、まさに、この物語の終わることのない闇は新約のキリストによる罪 のあがないの光を照らしています。
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