エステル記 9:20-10:3 ; エフェソの信徒への手紙 2:11-22
エステル記の最後の章は、ユダヤ人の祝うプリム祭りがどのように始まったかに ついて語るもので、その内容はわたしたちがこれまで聞いてきたことの繰り返しで す。ユダヤ人の敵ハマンがくじ(プル)を投げて、その日をペルシャに住むユダヤ 人を皆殺しにする日と定めていたものを、エステルの計らいによって逆転し、反対 にハマンを木にかけて殺し、ユダヤ人に敵対する者たちをペルシャ中の町々で滅ぼ しつくすことになった日、アダルの月の14日と15日、それは「ユダヤ人が敵を なくして安らぎを得た日、悩みが喜びに、嘆きが祭りに、変わった日と月です。 「この日をどの世代も、どの部族でも、どの州でも、どの町でも記念され祝われる べきこと」とされたのです。 ここで、「記念」という言葉が使われていることに注意したいと思います。これ は単に昔のことを回顧するという意味ではありません。昔に起こったことの現実性 を、今、再現する、ということ、一回限りの出来事を「記念」によって、そこで起 こった見えざる力の現臨や感動を生き生きと味わうことです。プリムの祭りにおい てユダヤ人はエステルの酒宴で起こった大いなる勝利、逆転劇を覚え、虐げられ迫 害されることの多かった時代の中でも、逆転の勝利を確信して大いに酔ったのです。 プリムの祭りは旧約聖書に出てくる「過越祭」、「仮庵祭」、「五旬際」のように、 特別な神の導きを記念する祭りではなく、ユダヤ人に敵対する者たちに対して積年 の恨みを晴らす出来事を記念する日ですから、世俗性の色彩が強いものです。この 日には、「ハマンは呪われよ」という言葉と「モルデカイは称えられよ」という言 葉の区別がつかなくなるほど酔っ払ってはならないと戒められたそうで、この祭り の性格をよく表しています。何を記念するかによって、記念する人や民族がどのよ うに生きるか、どのように人生を形成するかを方向付けるものとなります。 キリスト者はプリムの祭りは祝いません。最も大切なこととして記念するのは、 あの最後の晩餐です。そのとき語られた主の言葉、主が与えてくださったパンと杯、 これによって主の死を記念し、罪の赦しと贖い、主が与えてくださる復活の命にあ ずかる新しい契約にあずかる恵みを確信するのです。感謝の祝いとして。
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