6月12日
2011年6月12日

「 主の名を呼び求める者は皆、救われる 」

エゼキエル書 31:1-14 ; 使徒言行録 2:1-21


 わたしたちは、ペンテコステの日に聖霊が降って主イエスの弟子たちが地の果て

まで主の福音を宣べ伝えるようになったことを教会のはじめとして記念します。聖

霊の出来事を伝える使徒言行録の言葉の中に、日本語の聖書には隠れていますが、

「満ちる」という言葉が三度使われていることに注目したいと思います。

 その1は、「五旬節の日が来て」という言葉で、「ペンテコステまでの日が満ち

て」となります。聖霊が注がれるにいたるまでに、ふさわしい日までのときが満た

されなければならないことが示されているのです。弟子たちにとって、主イエスの

十字架のとき、復活の主と出会うとき、昇天のとき、そして、一同が集まって祈る

ときを経て、まさに時が満ちて、聖霊が降っているのです。それまでのどのときも

無駄ではなかったのです。

 次に「満ちる」という言葉が使われるのは、「突然激しい風が吹いてくるような

音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」、と記されているところで、

「家中に響いた」のは、家中に満ちたのです。聖霊は捉えがたいものです。しかし、

このとき、弟子たちの目や耳で感知できる激しい風の音、舌のように分かれて一人

一人にとどまる火のようなものとして、そこにいたすべての者が経験した、という

のです。聖霊は空虚な風ではなく、まさにわたしたちの心を燃やす火、心を命の言

葉で満たす風、神の言葉の息なのです。

 満たすという言葉が三度目に使われているのは、これは誰でもわかります。「一

同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだした」とい

うところです。聖霊に満たされるということは、語りだす言葉が与えられるという

ことです。自分の思いや思想を語る言葉ではなく、主イエス・キリストの十字架と

復活を通して示される罪の赦しと神の愛の福音を語りだす言葉、それは、自分にと

っても未知の言葉、未聞の不思議な言葉ですが、理解不能の言葉ではありません。

「それを聞く人たちは皆、自分の生まれた故郷の言葉を聞く、驚き、感動、安心、

喜び、そして希望の救いの言葉を聞くのです。

 ペンテコステのときに与えられた聖霊は、今わたしたち一人一人をここに召し、

教会に働く聖霊と別のものではありません。

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