箴言 8:21-31 ; ローマの信徒への手紙 5:1-5
大きな悲しみや苦難の中からどのように立ち上がってゆくことができるか、今わ たしたちの国は、この大きな課題ととりくんでいます。「そればかりではなく、苦 難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達 を、練達は希望を生み出すということを。希望はわたしたちを欺くことがありませ ん。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれてい るからです」、このみ言葉は、まさに今わたしたちの中で獲得しなければならない 知識です。 しかし、わたしたちがより身近に知っているのは、この言葉とは反対の知識です。 苦難がもたらす破壊作用の連鎖のことです。苦難は悲しみと痛み、苛立ちと怒りを もたらし、悲しみと怒りはわたしたちの心に深い傷を残し、自分自身との関係、他 者との関係を壊してゆきます。そのようにして、生きることの意味や価値を見失い、 絶望に追い込まれるのです。しかし、わたしたちは知っているのです。確かに、何 事につけ成功した人、達成した人は、必ず、艱難の中で、そこでなければ見出せな い知恵と、そのときだからこそ出会えた人との交わりがあって、そこで鍛えられた からこそ、今の自分があるということを。しかし、艱難が希望を生み出すような連 鎖、それを得ることができるのは、特別に才能や環境、チャンスに恵まれた人、自 分はそのような状況からは自分は遠い、と嘆くことが多いのです。 苦難から希望を生み出すような生き方を「わたしたちは知っている」と語る「わ たしたち」とはどのようなわたしたちなのか、これについてよく知ること、が肝心 です。このみ言葉の前後を読むと、それは「弱い人」「不信心な人」「罪人」「敵」 であった、と言っています。ところが、「キリストがわたしたちがまだ弱かったこ ろ、定められたときに、不信心な者のために死んでくださった。」そこに示されて いる神の愛が聖霊によってわたしたちの心に注がれ、その愛を信じるわたしたちで あるゆえに、神との間に平和を得ており、そこから、あの積極的な生き方が出て来 る、その愛を受けるには、何の差別もありません。神からのこの霊の賜物をいただ く者こそ、死にも打ち克つ希望を持つことができます。この「わたしたち」の中に、 わたしも加わることができます。
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