7月3日
2011年7月3日

「 永遠の命に至る道 」

詩篇 30 ; ルカによる福音書 10:25-37


 善きサマリア人のたとえは、あの強盗に襲われた人を助けたサマリア人のように、

隣人を助ける生き方を教えられる話です。しかし、このたとえが、律法の専門家が

主イエスに、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」と問うところか

ら始まっていることに注目しなければなりません。このような問いは、特別な宗教

的な問いのように見えますが、また、極めて現代的な問いでもあります。今こそわ

たしたちは、これまでのように浪費的な命の使い方ではなく、持続性のあるエネル

ギーの使い方や激しい災害にも耐える命のあり方、社会の在り方を考えなければな

らないと真剣に考えています。何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるかとい

う問いそのものが普遍性と永続性をもった人類全体の問いなのです。そして、驚く

べきことに、律法の専門家は、この問いに対する答えを既に持っています。主イエ

スが、「あなたはどう考えるか」と問うと、すぐに、「心を尽くし、精神を尽くし、

力を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛すること、隣人を自分自身のように愛す

ること」と答えたのです。そしてこの答えは、疑うべくもなく正しく、深く、また

真実を含んでいます。この答えの中には、人間の知恵や技術に頼れば何でもできる

という過信や、自分さえ生き延びればどうなってもかまわないというような豊かな

生活を享受している者に独特の無関心さからは解放された、確かな永遠の命を受け

継ぐ道が指し示されているのは確かです。主イエスは、この答えに対して、なにも

付け加えられません。「その通り。実行あるのみ」と言われるのです。

 ところが、不思議なことに、この話はここから始まっているのです。律法の専門

家は、自分を正当化しようと思って、「ではわたしの隣人とは誰ですか」と問うので

す。これ以上ない正当な答えをしたこの人が、なぜ、自分を正当化しなければいけ

ないのか、また、なぜ、自分の隣人が誰かを他者である主エスに聞かなければなら

ないのか、ここに人類全体が直面している深い深淵があることに気づかされます。

愛こそすべてを生かすものと知っていますが、それを行うことができないのです。

主イエスの善きサマリア人のたとえは、まさに人類全体が直面している閉塞状況を

打ち破る新しい道、永遠の命を受け継ぐ道です。それもただ、「わたしの隣人とは

だれか」という問いを、「強盗に襲われた人の隣人とはだれか」と問いを変えるだ

けで、その道を示しておられます。

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