エレミヤ書 1:4-10 ; ルカによる福音書 13:10-17
18年間も、腰が曲がったまま体を伸ばすことができなかった女性を癒された主 イエスの働き、この働きを通して、わたしたちは神の国がわたしたちの内に現され る有様に出会わされます。 主イエスは、エルサレムに向かう途上で、まるでユダヤの権威者たちに挑戦する かのように、安息日に、ユダヤの会堂で、この癒しを行われます。 多くの群衆に教えておられる時に、その中から特に「18年間も病の霊に取りつ かれている女」を見出して、「この女を見て、呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』 と言ってその上に手を置かれた」と記されています。この癒しは、この女性が願い 出たことではなく、一方的に主イエスの主導性によって行われています。この人の 腰の曲がりは、背骨の問題と言うより、「霊に取りつかれていた」とあるように、 おそらく、心の問題であったのでしょう。深い心の屈折、神に対しても、人に対し ても、また、自分自身に対しても、まっすぐな姿勢で正しく向かい合えない人は、 昔の時代に限らず、自分の中に、また隣人の中に見出すことができます。このよう な人間が自分の存在の意味や価値をどのように受け止めているかと想像すると、容 易にその存在の影の薄さ、存在の軽さが見えてきます。18年間もサタンの支配の もとに置かれていた人、この人に、「病気は治った」と、主イエスは手をとって立 ち上がらせます。その働きは、ただ一人、この女性を救っただけでなく、サタンの 全宇宙的な支配に対する戦いと勝利を現しています。しかし、ここから予期した通 りの反応が起こります。会堂長がこの出来事に腹を立てて、「働くべき日は6日あ る。その間に来て直してもらうがよい。安息日はいけない」と宣告します。忠実な 律法遵守を主張する中で、別の種類のサタンの支配が現されており、戦いが必要で す。主イエスの安息日の戒めの捉え方が違います。その日には、「あなたも息子も、 男女の奴隷も、牛、ロバなど、あなたと同じように休むことができる日」として、 神のまったき休息にあずかる日であるべきだというのです。牛やロバにさえ休息と 解放を与えるべく定められた日に、18年間も、心も体もゆがめられ、サタンの支 配のもとにあったこの人を解放してはいけないのか、と問い返されます。「重荷を 負って苦労している人は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言う主 の言葉が、この安息の日にこそ、実現しています。
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