サムエル記下7章1−29
エルサレムで最初に建てられた神殿は「ダビデの神殿」と呼ばれないで「ソロモ ンの神殿」と呼ばれます。ダビデは神殿の建設を切に願ったが、それは主なる神に よって阻まれたからです。なぜダビデは神殿を建てることを許されなかったのか、 それは、イスラエルをエジプトから荒れ野の旅を経て導き上った神は、レバノン杉 の家を建てよとお命じになる方であるよりも先に、何よりもダビデに対して「主は あなたに告げる。主があなたのために家を興す」といわれる方であることを告げら れたからです。主の家を建てようとするダビデに対して、主は逆にダビデの家を建 てようというのです。そのように約束される主の恵みの大きさに圧倒されて、ダビ デは神殿建設をソロモンの代にゆずるのです。 ここで語られていることは、わたしたちにも直接に主なる神から告げられること ばです。主なる神は、ダビデの信仰の深さや敬虔の枠のなかでご自分の神殿を建て ることをお許しになりません。どんなに度量の大きいものであっても、我々が主の 宮を建てようと決意しても、主はその切なる願いを押し戻して、もっと根源的に主 がわたしたちの家を建ててくださり、堅固にしてくださることをまず圧倒的な恵み をもって約束してくださるのです。ここでは、ダビデと同じように、感謝の祈りを ささげるほかないような状況です。 主なる神とダビデとの間に起こった関係の構造は、聖書の福音の構造そのもので す。わたしたちがどのように神と隣人を愛すべきかと問うときに、「わたしたちが 神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえ として、御子をおついかわしになりました。ここに愛があります。愛する者たち。 このようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも、互いに愛し合うべき です」(1ヨハネ4.10) と語られます。わたしたちが「神を信じます」とか「神に従 います」、「神のために家を建てます」というような決意は大切ですが、それは独 りよがりで自由のないものです。福音によって伝えられる主イエス・キリストの神 を愛することは、ダビデと同じように、その思いは押し戻されて、「いや、わたし があなたを愛している」という圧倒的なメッセージにふれることになります。「主 なる神。あわたは神、あなたのみ言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの み言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前にながらえさせ てください」とダビデと共に、このように祈るとき、感謝と自由の霊が働きます。