9月11日
2011年9月11日

「 喜びの油を注がれた御子 」

詩篇 104:1-24 ; ヘブライ人への手紙 1:5-9


 ヘブライ人への手紙は、旧約聖書に語られている神の言葉と新約で語られる神の

御子の福音との対比によって議論が進められます。その第1弾が天使と御子との対

比です。詩篇を中心とする言葉によって、御子の優位性が論証されます。わたした

ちはこれを読むとき、天使の存在そのものがリアルではないので、対比されてもピ

ンとこないのが実際ではないでしょうか。へブル的な思考では、神が何かの働きを

起こされるとき、直接に姿を現し手を差し伸べるのではなく、さまざまな媒介手段、

風や太陽、動物や人間を用いて働かれると考えました。それらの媒介手段の人格化

されたものが天使です。わたしたちも、太陽の恵みを感じたり、自然の脅威と言っ

たりすることに通じていて、機械的、物質的な物の中に何かの意図や心を感じる精

神だと考えると、全く理解不能ということではないでしょう。特に、ここで天使に

よる神の意志の伝達と御子キリストによる啓示との対比が行われるのは、神の律法

が天使の媒介によってモーセに告げられた、というユダヤ的な思考があって、これ

に対して御子による啓示の優位性を明らかにするという意図が働いているのです。

パウロが、律法の行いによらず、キリスト・イエスを信じる信仰によって義とされ

る、と主張した論旨と共通するものです。

 ここでは、御子については、「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産ん

だ」、と語られていることに対して、天使に「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」

と語られていること、また、天使には「神はその天使たちを風とし、ご自分に仕え

る者たちを燃える炎とする」と語られているが、御子については、「あなたの王座

は永遠に続き、・・・喜びの油を、あなたの仲間よりも多く、あなたに注いだ」と

いった具合に天使と御子を対比させています。旧約聖書の箇所を開いてみると、こ

れらの言葉は文脈と関係なく引用されていて、初代教会のキリスト証言集を基にし

ていることをうかがわせます。いずれにしても、御子の高さ、偉大さ、神との関係

の直接さは、それ自体は、何か遠くのことを聞いている感じがします。しかし、こ

れは、この後に来る、御子がわたしたちと同じ人間となり、わたしたちと同じ弱さ

を身にまとった、という、この書で最も伝えたいことの前提なのです。


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