11月10日
1996年11月10日

「人はパンだけで生きるのではない」

マタイによる福音書4章1−11


 イエス・キリストはだれか、その生涯の意味と輪郭をとらえるために、「荒れ野

の誘惑」といわれるイエスと悪魔との対話の記事をよく読むことは益になると思い

ます。洗礼を受け、天が開かれて「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう

者」という声を天から聞いたという出来事に続いて、「神の子」と呼ばれるイエス

が「悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行った」という異常な状況

からこの対話が始まります。荒れ野のようなこの世で、絶えず試みを受け、誤りと

失敗、暴走と恥辱を経験して泥にまみれるようにして生きているのは、人の子であ

るわたしたち人間の現状です。ほかならぬ「神の子」が、「荒れ野」で、わたした

ちと同質の試みと誘惑を経験する、これはどうみても異常なことです。しかし、神

の子、全能の主の「心にかなう者」は、その生涯のはじめに、肉を持つ人間のただ

なかで、しかも、生と死の極限である荒れ野で、悪魔の誘惑にあっておられます。

 悪魔のイエスへの問いかけはすべて「あなたが神の子であるなら」というところ

からはじまっています。悪魔の誘惑に勝って、「神の子」イエスによって選び取ら

れた道は、神の前で真実に人として生きる道です。神の子であるなら、石をパンに

変えよ、聖所の高みから飛び降りよ、この世の繁栄と栄華をほしいままにするため、

この世の主、悪魔の前にひざまづけ、との誘いは、いかにも人間が神のようにふる

まい、人間的限界を踏み越えて、超越と優越、を顕示するにいたるものです。人間

は、このように神のようになることによって、生きがいと救いを見いだそうとする、

その本質をついています。主イエスは、悪魔の誘いに対して、淡々と申命記に記さ

れていることばによって答えていきます。イスラエルの人々に与えられた戒めの言

葉を繰り返すのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一

つの言葉によって生きる」、「主なるあなたの神を試みてはならない」、「サタン

よしりぞけ、主なるあなたの神を拝し、主にのみ仕えよ」。このようにして選び取

られた主イエスの道は、真の人の神の前での誠実な生き方ですが、またそれは、十

字架の死に至る道でもあることはすぐにわかります。これは、神の如くあろうとす

る人間の罪に自分を引き渡し、その罪を代わって担う歩みです。このように、主イ

エスは、わたしたちの中で、わたしたちと共に、わたしたちのために、真実に人の

子として生きる神の子です。
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