10月16日
2011年10月16日

「 神さま聞かれる祈りとは 」

エレミヤ書 31:27-34 ; ルカによる福音書 18:1-14


 イエス様の譬話は、大人にも子どもにも理解できます。目の前で起こっている出

来事のように話されながら、そこに神様との正しい交わりの持ち方、祈り方が示さ

れているのです。

 ある街の裁判官に訴えたやもめの話。神を敬うこともなく、人を人とも思わない

裁判官。こんな人を裁判官に持った町は不幸です。神を畏れ、人を愛し、正義と公

正の感覚を持たないような裁判が行われるとき、怒りと嘆き、混乱と無秩序が広が

ります。この町に一人のやもめがいて、『わたしを苦しめ、追い詰める者を処罰し

て下さい。正しい裁きをして下さい』と訴えます。聖書では「やもめと孤児、寄留

者」には特別の関心を注ぐことが裁判官の務めだと言っています。ところが、この

やもめは正反対の心がけの悪い裁判官に逢ってしまったのです。しかし、やもめは

ひるみません。何度も何度も訴えて、とうとう裁判官にこう言わせるまで訴え続け

たのです。「自分は神など恐れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめ

はうるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっ

きりなしにやってきて、わたしをさんざんな目にあわすに違いない。」何といい加

減な裁判であることか。ところが何と、主イエスは、この裁判官を神さまにたとえ

て、天の父の心を知るうえで役に立つ、と言っているのです。「まして神は、昼も

夜も叫び求める選ばれた者のために、裁きを行わず放っておかれることがあろうか」

と。わたしたちも、ひるまずに祈らなければならないのです。

 もうひとつの譬話、ファリサイ派の人と徴税人の祈りがわたしたちの目の前に置

かれます。善人と悪人、まっとう市民とやくざのように違う二人の祈りです。しか

し、人の心を見抜く神は、ファリサイ派の人の「自分を正しい人間だとうぬぼれて、

他人を見下している人」の心の祈りを見抜いて、その祈りは聞かれず、かえって、

「遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら」このように祈る祈

りを聞かれます。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」これが礼拝のとき、

わたしたちが罪の告白をするときに歌う祈りの原型です。わたしたちの心の祈りは

どうでしょう。徴税人にさえ、憐れみをかけて聞いてくださる主に、この祈りの霊

を与えてくださるように祈りましょう。

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