出エジプト記 29:35-46 ; ヘブライ人への手紙 2:17-36
わたしたちが礼拝する主イエス・キリストはどのような方か、また、主イエスに よってもたらされる救いは、どのような救いかについて、ヘブライ人への手紙は次 のように答えます。「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司とな って、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなか ったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている 人たちを助けることがおできになるのです。」 ここで、“憐れみ深い”“忠実な”“大祭司”と三つの言葉に込められている内 容をよく吟味することが大切です。「憐れみ深い」の内容は、後の5章1節に、 「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を 思いやることができるのです」と記され、「憐れみ」が「思いやり」と言う言葉に 置き換えられています。また、4:15には、「この大祭司は、わたしたちの弱さ に同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたし たちと同様に試練に遭われたのです。」と記され、5:7には、「キリストは、肉 において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死 から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入 れられました。」と語られています。従って、「憐れみ深い」は、日本語の語感か ら想像されるような、苦しんでいる者を上から下を見下ろす視線とは全く違うもの です。共に弱さと罪の中で苦しみ、涙を流し、叫び、祈る、そのような同質性をも ってわたしたちの兄弟となってくださったキリストの生涯全体を通して表わされて いるわたしたちに対するみ思いです。“憐れみ深い”を理解する鍵は、「すべての 点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」と言う言葉にあります。 「同じようになる」は、主イエスが示された救いは、神が一時的に人間の姿を借り て苦境にあるものに現れ、救助の手を差し伸べるような超自然の奇跡的な業による 救助ではありません。また、人間として何かの霊感が宿って一時的に神のようにな り、超人的な働きをする救助ではありません。そうではなく、真の神が真の人とな って、その誕生から死に至るまでの全過程を人間として生き、しかも、罪と死を担 う人間として試練を受け、神に見捨てられた者の祈りを共にすることをもって、 「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人を助けることができる」 のです。
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