民数記 20:1-13 ; ヘブライ人への手紙 3:6-14
「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償う ために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、 御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けること がおできになるのです。」この手紙の著者は、この主イエスに対する信頼を持ち続 け、そこから固く立って動かされないように勧めます。「もし確信と希望に満ちた 誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」(6節)「わたし たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者と なるのです。」(14節) これらの勧めは共に、もち続けること、キリスト教教理 用語では「堅忍」と表現されることです。罪と死に取囲まれた私たちの人生、信仰の 堅忍を脅かす試練を乗り越えて、主イエスに信頼し、希望と誇りを持ち続けること は、言われるまでもなく大切です。 何がわたしたちの信仰を持ち続けることを脅かし、生ける神から引き離し、希望 なきものにし、その根底を揺るがすことになるのでしょうか。この手紙の著者は詩 篇95編の言葉を引用しながら、イスラエルの民の荒れ野の40年の旅の歴史を思い 起こさせます。信仰者の歴史が、その失敗を覚えることによって、信仰の堅忍を養 い、試練に持ちこたえる信仰を学ぶことが出来ることを教えるのです。ここで想起 されているのは、荒れ野の旅を始めたばかりの頃、人々は渇きの余りモーセに向っ て不平をのべ、「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしたちも子どもた ちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と迫り、石で打ち殺さんばかりだったこ と。この時、モーセは神に命じられ岩を打ち、そこからほとばしり出た水によって 人々の渇きを潤したのでした。その場所をマッサ(試み)、メリバ(争い)と名付 けました。ここで取り上げられている「信仰の試練」、信仰を持ちこたえることを 脅かすものは、原理問題ではなく、荒れ野を旅する大群衆に水がないという極めて 現実的な、また差し迫った問題です。この現実の危機を打開しようとする中で「罪 に惑わされて心が頑なになる」不信仰、罪、生ける神からの離反、反逆が起こるこ とを教えているのです。そのわたしたちに、「試練を受けて苦しまれたからこそ、 試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」という主イエスに目 を向けて、生ける神に信頼を向けさせるのです。
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