エレミヤ書 17:5-12 ; ヘブライ人への手紙 4:1-11
今日わたしたちに与えられている神の言葉は、「神の安息にあずかるように全力 を注ごう」という呼びかけです。詩篇95編の言葉を解き明かす形で、「安息、休 み」という言葉が11回も繰り返し出てきます。詩篇の、「彼らを決してわたしの 安息にはいらせはしない」という神の怒りと拒否の言葉が、この書の勧めでは、逆 転して、古のイスラエルの民は、不信仰の故に「わたしの安息入らせはしない」と 怒られたのだから、信仰を貫く者には、「まだ安息に入る約束が続いているのだか ら、神の安息に入るように努めよう」と勧めているのです。不思議な論理の展開で す。 ここで用いられている「安息」とは、どういう「安息・休み」か、「安息」のイ メージは単純ではなく、重層的です。詩編で語られている「わたしの安息に決して 入らせない」という言葉でイメージされている安息は、エジプトを脱出し、奴隷の 家から解放されて、40年の荒れ野の旅の果てに「乳と蜜の流れる地」約束の地に 入ることです。古のイスラエルの民は、荒れ野の旅の間、繰り返し神を試み、背き ました。その民の不信仰に対して向けられた神の怒りの言葉が詩編に語られている のです。次に語られる「安息」は、天地創造のときに7日目に休まれた「神の安息」 のことです。そこでは、神はすべての創造の業を完成し、その業から離れ、安息し、 その日を祝福し、聖別された、あの安息で、安息日はその日の神の安息にあずかる ことでした。第3の安息のイメージは、「安息日の休みが神の民に残されているの で、神の民はこの安息に入るように全力をあげよう」と言っており、そこでイメー ジされている安息は、イエス・キリストが人となってわたしたちの兄弟となって下 さったこと、わたしたちの痛みや苦しみを分かって下さる方であることを信じる信 仰によって与えられる心と体の安息、永遠の命の希望のことで、これは古の人々の 問題ではなく、今を生きるキリスト者であるわたしたちが目指すべき課題です。第 1のイメージと第3のイメージの安息を結びつける言葉が「信仰。不信仰」で、信 仰によって約束を信じるならば「神の安息」にあずかることが出来る、というわけ です。信仰が目指すこと、全力を尽くすべきことは「神の安息」にあずかることだ と明確にされています。
秋山牧師の説教集インデックスへ戻る