12月4日
2011年12月4日

「 大祭司イエス 」

イザヤ書 55:6-11 ; ヘブライ人への手紙 4:14-5:3


 ヘブライ人の手紙は、神の安息にあずかる安息日の休みにあずかるように全力を

注ぎなさい、という勧めをするとことから、また大祭司キリストのことを語るテー

マに戻ります。興味深いことに、主イエス・キリストを語るとき、この手紙では、

アブラハムやモーセ、あるいはダビデ王やイザヤ、エレミヤといった預言者など、

旧約の信仰のヒーローを引き合いにするのではなく、旧約でも新約でも、スキャン

ダラスなイメージの強い『大祭司』を引き合いにして、その救いの性格を語ってい

ます。それは、キリスト教の信仰が、信仰者の生き方や人柄に基づくものではなく、

神との和解を造り出す神の側からの働きに根ざしているからです。人間の中から選

ばれた大祭司の具体的な生き方が何であれ、担った和解者の職務の重要さのゆえに、

神の御子、主イエス・キリストの人としての歩みを映し出す鏡として用いられてい

るのです。

 更に、興味深いことは、この手紙では、主イエスが果たされた救いのみ業を、大

祭司の働きと重ね合わせることを提示していますが、そこで強調されることは、大

祭司の社会的な位置の高さや尊さではなく、その弱さと試練を受けられたことです。

「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出

来になる」(2:18)、とか、「この大祭司は、わたしたちの弱さを同情できな

い方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたち同様に試

練を受けられた」こと、「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無

知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです」(5:2)と語られていま

す。弱さを共に担う者として、「同情する」、「思いやる」ことが強調されるので

す。しかも、その思いやりや同情は、遠くから他人事として見るかたちのものでは

なく、同じ肉体を持ち、わたしたちの兄弟となって、同じ試練を受けたものとして、

その苦しみの感情や感覚を深く理解しての、「思いやり」であることが明らかにさ

れます。

 「神の言葉は生きていて、どんな両刃の剣よりも鋭く・・心の思いや考えを見分

ける」、と語られていましたが、その言は、また、肉体をとって、罪あるわたした

ちの世界に来られた真の言、主イエス・キリストにおいて、ただ切り裂き、刺し貫

くだけでなく、わたしたちの弱さに対して、このように思いやる方でもあります。

秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る