イザヤ書 55:6-11 ; ヘブライ人への手紙 4:14-5:3
ヘブライ人の手紙は、神の安息にあずかる安息日の休みにあずかるように全力を 注ぎなさい、という勧めをするとことから、また大祭司キリストのことを語るテー マに戻ります。興味深いことに、主イエス・キリストを語るとき、この手紙では、 アブラハムやモーセ、あるいはダビデ王やイザヤ、エレミヤといった預言者など、 旧約の信仰のヒーローを引き合いにするのではなく、旧約でも新約でも、スキャン ダラスなイメージの強い『大祭司』を引き合いにして、その救いの性格を語ってい ます。それは、キリスト教の信仰が、信仰者の生き方や人柄に基づくものではなく、 神との和解を造り出す神の側からの働きに根ざしているからです。人間の中から選 ばれた大祭司の具体的な生き方が何であれ、担った和解者の職務の重要さのゆえに、 神の御子、主イエス・キリストの人としての歩みを映し出す鏡として用いられてい るのです。 更に、興味深いことは、この手紙では、主イエスが果たされた救いのみ業を、大 祭司の働きと重ね合わせることを提示していますが、そこで強調されることは、大 祭司の社会的な位置の高さや尊さではなく、その弱さと試練を受けられたことです。 「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出 来になる」(2:18)、とか、「この大祭司は、わたしたちの弱さを同情できな い方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたち同様に試 練を受けられた」こと、「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無 知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです」(5:2)と語られていま す。弱さを共に担う者として、「同情する」、「思いやる」ことが強調されるので す。しかも、その思いやりや同情は、遠くから他人事として見るかたちのものでは なく、同じ肉体を持ち、わたしたちの兄弟となって、同じ試練を受けたものとして、 その苦しみの感情や感覚を深く理解しての、「思いやり」であることが明らかにさ れます。 「神の言葉は生きていて、どんな両刃の剣よりも鋭く・・心の思いや考えを見分 ける」、と語られていましたが、その言は、また、肉体をとって、罪あるわたした ちの世界に来られた真の言、主イエス・キリストにおいて、ただ切り裂き、刺し貫 くだけでなく、わたしたちの弱さに対して、このように思いやる方でもあります。
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