イザヤ書58:3-11 ; ヘブライ人への手紙 5:7-14
ヘブライ人への手紙の独特のキリスト論は、二つの驚くべきキリストへの信仰告 白へと発展しています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫 び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈りと願いとをさ さげ、その畏れ敬う態度の故に、聞き入れられました。」「キリストは、御子であ られたにもかかわらず。多くの苦しみによって、従順を学ばれました。そして、完 全な者になられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの 源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」この二つ の文章は、同じ内容のことをそれぞれ相呼応し、補い合いながら、キリストを賛美 するものとなっています。 主イエスの祈り、激しい叫びと涙を伴う祈りは、まさに人間の側からの祈りです。 汗を血のように流しながら、「どうかこの杯をわたしから取りのけて下さい」とのゲ ツセマネの祈り、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」 という十字架上の祈りは、弱さと無知と迷いの中にいる人間の罪を、一身に担う祈 りであることは間違いありません。しかし、この祈りは、わたしたちが泣き叫びな がら祈る祈りとは違っています。傷ついた自己愛と誇りを嘆き、痛み、失われた誇 りを回復するために叫ぶものではなく「従順を学ぶ」ための叫びであったのです。 神の御子が、これほど神から遠い位置から、これほどの混沌と窮状の中から祈る祈 りにおいて、従順を学ばれた、というのです。パスカルは、「わたしの傷を御自身 の傷に加え、わたしと御自身をつながらせなければならない。そうすれば、彼は御 自身を救うことにより、このわたしも救ってくださるであろう」と言っています。 まさに、この主の苦しみに救済の力、救いの源があるのです。 その祈りは「聞き届けられた」とあります。どのように聞き届けられたのか。そ れは、「この杯を取り除けて下さるように」との祈りの方ではなく、その後の祈り、 「わたしの願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」、という祈 りでした。願い通りのことが実現するのではなく、御心に適うことへと祈りが向き 変えられるとき、聞き届けられたのです。この従順を学ぶべし。
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