列王記上19章1−18
ソロモンによって建てられた神殿での礼拝は、やがてイスラエルが南北の両王朝 に分裂し、さらに先住民のカナン人の祭儀と混淆するに至って堕落の一途をたどり ます。堕落の途上で宗教を純粋に保つための闘いをしたのが預言者たちです。預言 者エリヤはアハブ王によってイスラエルの宗教がまさに崩壊に瀕したときそれと正 面から闘いました。アハブはシドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、完全なカナン 化を進めたのです。生きた万軍の主、エジプトの地、奴隷の家から導き出した主と 向き合うことを避け、多産豊穣、自らの安全と繁栄を祈る自分のための神を導入し、 真の宗教を捨てようとしたのです。エリヤのバアル神の預言者とのカルメル山上で の壮絶な闘いはそのような中で行われました。 しかし、ここでのエリヤは疲れ果てています。疲れ果てて独りで荒れ野に向かい、 ホレブの山に向かっています。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってくださ い」といいます。追いつめられ、自信を失い、まさに破滅に瀕しています。そのエ リヤを40日40夜歩き続けさせて、主がエリヤをホレブの山まで導きます。モー セが十戒をいただいたあの山に。ここに、旧約の信仰が崩壊の危機に瀕したとき、 回復力を得る源泉が示されていることに気づきます。40年の荒れ野の体験、そし てその中心にある神との恵みの契約、そこで得たこと以外のことをそぎ落としてい くこと、エリヤはそれを最初にした人です。わたしたちは中心を失い、崩壊に瀕し 絶望的な状況を経験するとき、どこに帰っていくのでしょう。 ホレブの山で主なる神がエリヤと出会われるその出会い方は大変印象深いもので す。恐れなく神のために闘ってきた人は、今は刀折れ矢尽きて疲れ果て、孤独と絶 望の中にいます。情熱の泉が尽きたこの男と主なる神が出会われます。大いなる激 しい風によってでもなく、地震によってでもなく、火によってでもなく、それらの 後にある「静かにささやく声」によってです。異常な自然現象を通して、その向こ うにある何かわからない力によってではなく、静かな、小さなささやく声であるが、 たしかな人格的な言葉において、この孤独な絶望する人は、神と出会います。そこ で見通しを与えられ、立ち上がらせられるのです。祈りを込め力を尽くして建てた 神殿さえも正しい信仰を保持し得なくなったとき、信仰的情熱が絶望を乗り越える のではありません。確かに、生きた主なる神の「静かにささやく声」、確かなみ言 葉がわたしたちを支え立ち上がらせます。