申命記6:1-15 ; ヘブライ人への手紙6:4-12
ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストについて、御自身試練を受けて苦し まれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができると、限りなく人間 の弱さを思いやる方であることを教えています。しかし、次の言葉をわたしたちは どのように受け取るべきでしょうか。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、 聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来たるべき世の力を体験しなが ら、その後に堕落した者の場合は、再び悔い改めに立ち帰ることはできません。神 の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(6:4−6)。 日々の生活の中で、自分の歩みがどれほど主の恵みと招きから離れた思いと言葉と 行動であるかを自覚する者にとって、このみ言葉は大きな壁のように立ちふさがり ます。悔い改めて立ち帰る道が閉ざされ、希望が絶たれているように感じます。ま た、このみ言葉は、主イエス・キリストによって伝えられた、罪人を招くために来 られた主の「福音」と矛盾するのではないか、とも感じられます。「一度光に照ら され、天からの賜物を味わい・・・」と語られていることは、洗礼を受け、聖餐に よって養われ、聖霊の賜物をいただき、み言葉に養われて、主の教会の交わりの中 で歩むキリスト者の生活の内面的な状況が映し出されています。この生活から「堕 落する」ということは、単に過ちを犯すとか、戒めに背く、ということではなく、 背信、背教のことを示している、と言われます。ヘブライ人への手紙が書かれた時 代の教会が直面している危機的な状況から、脱落、背教の事態に至る人々がいたこ とがうかがわれますが、それにしても、そのような者は悔い改めの道が絶たれてい るというのは、厳しすぎる感じがします。 確かに、この手紙では、このように厳しい言葉に続いて、「しかし愛する人たち、 こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについてもっと良いこと、 救いにかかわることがあると確信しています」と語調を和らげ、この厳しさは、警 告として語られていることが分かります。しかし、注目すべきは、ここでキリスト のものとなった者の生活を正し、秩序づける基準は、律法や人生を生き抜く知恵な どではなく、「神の子の十字架」の事態であるということです。これは究極の歯止 めとなっていることです。
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