ゼカリヤ書9:9-12 ; ヘブライ人への手紙7:20-28
「メルキゼデクと同じような大祭司キリスト」という独特の主イエス・キリスト理 解について、その内容の展開が続きます。ここでは、出エジプトを契機に定められ た、レビの部族、祭司アロンの家系による祭司制度と、それははるかにさかのぼる アブラハムの時代に忽然と現れ、また消えるサレムの王であり祭司であるメルキゼ デクの系譜につらなる大祭司主イエスとの比較、優劣の対照が行われています。比 較のポイントは二つ、1)レビ系の祭司は神の誓いの宣言によらないで祭司になっ ているが、この方、すなわち主イエスは詩編110篇に示されているように、神の おごそかな誓いの宣言によって祭司になっている、2)レビ系の祭司はその務めを 死によって終えなければならないが、イエスは永遠に生きているので、永遠に変わ るのとなく祭司の務めを行うことができる、です。このような比較をしながら、次 の印象深いメッセージが語られます。「この方は、常に生きていて、人々のために 執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがお 出来になります。」 主イエスを信じ、罪を赦されて、父、子、聖霊なる神との確かな交わりを回復す るキリスト者を、「神に近づく人たち」と表現しています。この表現はヘブライ人 への手紙の中でよく使われる独特の表現ですが、大祭司であるイエス・キリストの 執り成しによって、そのことが可能になり、「完全な救い」をもたらすものになる、 というのです。この表現によって語られることは、わたしたちがキリストによって 救いを与えられるのは、何かわたしたちの願いがかなえられるとか、わたしたちの 幸福が一時的に保証されるといったことを超えて、わたしたちの生きることの全体 が救いにあずかり、聖なるものへと変えられる「本体的な救い」が与えられる、と いうことです。「人間中心の救い」ではなく、「神に造られた形に快復される救い」 が語り出されています。実に、わたしたちは、このような救いにあずかることがで きるのです。 [完全な救い]と訳されている言葉は、二通りの解釈が可能で、質的な内容を示 す[完全な救い]だけでなく、時間的な内容を示す[どんな時にも与えられる救い」 と取ることもできます。主の執り成しにあずかる者は、その全体性にあずかるので す。
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