3月4日
2012年3月4日

「 ただ一度ご自身を献げることによって 」

エレミヤ書9:22-23 ; ヘブライ人への手紙7:26-8:2


 み言葉は、主イエス・キリストが、「メルキゼデクと同じような大祭司」として、

わたしたちのためにいつも生きていて執り成してくださり、完全な救いをもたらす

方であることを明らかにします。このことを受けて、「このように、聖であり、罪

なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天より高くされている大祭司こそ、

わたしたちにとって必要な方なのです」といいます。「必要な方」と訳されている言

葉は、「必要」というだけでなく、「適格、不可欠な方」の意味も含みます。主イ

エスのわたしたちの救いにとっての「適格性」は、わたしたちと同じ人間性を持つ

者として、わたしたちの弱さを思いやることができるという同質性と、罪から離さ

れ、もろもろの天より高くされている、という神の子の隔絶した至高性との両方向

を備えている方としての適格性・必要性があげられ、この方こそわたしたちの完全

な救いをもたらすことができる方だというのです。

 この方は、罪のための贖いの供え物として、「ただ一度、御自身を献げることによ

って成し遂げられた」と語られます。「ただ一度」が強調されているのは、主イエス・

キリストが他のどの大祭司とも決定的に違う点を示しているのです。大祭司は、毎

年大贖罪日に自分の家族と民全体のために贖いの牡牛や山羊の血を注いで神の前で

罪の赦しを求める祭儀を繰り返していました。何度も繰り返さなければならなかっ

たのは、その贖罪の行為の不完全性を意味しています。それに対して、主の執り成

しの一回性は、それが決定的なもの、完結したもの、それ以上何も必要がないもの

であることを示しています。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死な

れたのであり、生きておられるのは神に対して生きておられるのである」(ローマ6:10)

とパウロが語るのも同じ趣旨です。歴史的な出来事は「一回限り」の特徴を持ちま

す。昨年の3月11日の大地震で亡くなった多くの方々の死はその時に限って起こ

った出来事で、このことが繰り返し思い返されます。しかし、歴史的出来事は、津

波がそうであるように、また、繰り返されます。しかし、主イエスの十字架の死と

贖いは、歴史的出来事であるとともに、神と人との関係の歴史において最終決定的

な出来事、まさに、永遠が歴史に突入した出来事なのです。

秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る