詩篇 110 篇 ; ヘブライ人への手紙8:1-6
「わたしたちは、このような大祭司が与えられています」、ヘブライ人への手紙は、 このことを伝えるために全編があると言っても過言ではありません。「肉の掟の律 法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられた大祭司」。罪を犯されな かったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われ、無知な人、迷っ ている人を思いやることができる、この方が常に生きていて、人々のために執り成 しをし、神に近づく人たちを完全に救うことができる。「このように、聖であり、 罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天より高くされている大祭司こそ、 わたしたちにとって必要な方」だ、というのです。 8章からは、大祭司キリストがどのような方であるかを更に発展させて、この大 祭司はどのように大祭司としての職務を果たされたかが語られます。最初のポイン トは、大祭司としての職務を果たされた[場]がテーマです。それは、「人間では なく、主がお建てになった聖所、真の幕屋」です。地上の聖所において、人間の中 から選ばれた大祭司が、一年に一度、雄牛や雄羊の血を携えて至聖所に入り、罪の 赦しを神に願うのに対し、大祭司キリストは、天の聖所で、一度限り、御自身を捧 げられた、と、主イエス・キリストの十字架の死が、このような祭儀行為として説 明されます。 ここで興味深いのは、イスラエルの民が、荒れ野の旅の間に用いた「臨在の幕屋」、 また、後にエルサレムに建てた「神殿」のことを、「天にあるものの写しであり、 影であるもの」としていることです。旧約の詩人は、「主の大庭に住まう一日は、 千日にもまさる」と歌いました。主を礼拝する場が、どれほどに喜ばしく、魂を高 揚させるものであるか、その心が伝わってきます。その心の高揚は、地上の目に見 える礼拝共同体の讃美や教え、交わりから、想像をめぐらして、「主の大庭」を思 うことからきている、とも考えられます。現実から理想への昇華です。しかし、ヘ ブライ人への手紙の著者の聖所理解は反対です。天の聖所の礼拝こそ礼拝の本体で あって、地上の礼拝は、その写し、また、影だというのです。現実の目に見ている こと、人間の集団の宗教行事に過ぎないものは、天の真の礼拝を正しく映し出すこ とによって初めて正しい礼拝になる、と。まさに、わたしたちの礼拝を考える基本 です。
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