イザヤ書50:4-11 ; マタイによる福音書27:11-54
主イエスが磔にされた十字架の上には、「ユダ人の王」と書かれた罪状書きが掲げ られていました。ローマ総督ポンテオ・ピラトの指示によってこの捨札がかけられ たのです。主イエスがユダヤ人の祭司長らの訴えによってピラトの前で裁かれたと き、ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と問い、それに対して主イエスは 「それはあなたが言っていることです」と答えたことは、どの福音書にも書かれて います。ところが興味深いことに、マタイによる福音書だけは、それに先立つユダ ヤの最高法院での裁判のとき、大祭司カイアファは、「お前はほむべき方のメシア であるか」と問い、主は、「それはあなたが言ったことです」と答えています。さ らに、最後の晩餐の時、12弟子の中でわたしを裏切るものがいると告げられた時、 ほかの弟子たちが不安に思って、口々に「主よ、まさかわたしでは」という中で、 イスカリオテのユダも、「先生、まさかわたしのことでは」と問います。その問い に対して、「それはあなたが言ったことだ」と同じ答えを返しています。不思議な 答え方ですが、これは、アラム語の慣用語で間接的な肯定を表すといわれます。し かし、イスカリオテのユダ、大祭司カイアファ、ポンテオ・ピラトとこの三人の名 前は、主の十字架への歩みが決定的になって行く鍵の人物ですから、この三人の問 いに対して同じ答えをされたとマタイ福音書に記されていることは、特別な意図を 思わせます。 既に主を祭司長たちに引き渡すことを心に決めていたユダ、この人の「まさか私 では」という言葉に潜む人間の心の闇、偽善性、不誠実の典型を見ますが、主イエ スは、その言葉をそのままユダに返しています。大祭司の問いは、かつてペトロが 「あなたこそ、生ける神の子メシアです」と答えた、あの信仰告白を思い起こしま す。大祭司はイエスを死刑にしようとして、この問いを投げかけますが、その信仰 告白は、そのまま大祭司に返され、その信仰告白を拒絶する者としての大祭司自身 の心を露わにしています。ピラトはイエスは無実であることが分かっていながら、 群衆の「十字架につけろ」という叫びを見て、自分の責任を投げ出した人です。自 分が発した問いが自分に返されることによって、その無責任さが露呈された具合に なっています。主の十字架は、このような人々の問いのうちに潜む、闇、不信、無 責任の罪を引きうけるものなのです。
秋山牧師の説教集インデックスへ戻る