出エジプト記 30:1-16 ; ヘブライ人への手紙 9:1-14
ヘブライ人への手紙の著者は、旧約の動物の供え物による祭儀では不完全で、真 の救いは与えられないことを強調します。そこから更に詳細に、旧約の祭儀と聖所 のことが語られます。モーセに導かれて奴隷の家エジプトから脱出し、荒れ野の旅 をしている間にシナイ山で神からの律法をいただき、それによって建てられた神と の出会いの場、「臨在の幕屋」、後のエルサレム神殿の原型となったものですが、そ こに備えられていた供え物を捧げる祭壇や契約の箱、燭台、聖所と至聖所を隔てて いた幕、そして一年に一度大祭司が雄山羊と雄牛の血を携えて自分自身と民全体の 罪を贖うために至聖所に入って行く祭儀のことが語られます。礼拝所の構造やその 中で行われる祭りごとは部外者には意味のないことのように見えても、その宗教の 本質がそこに現れています。旧約の「臨在の幕屋」と言われる聖所の構造や祭儀に よってわかることは、旧約の宗教は、エジプトの奴隷の地より導きだし、御自身の 民として受け入れ、御自身の民にふさわしい道を示され、契約を結んで下さる神、 天地を創造し、歴史を導く神を、崇め、礼拝し、契約の民として神の民にふさわし く歩むことに核心がある、ということです。しかし、ヘブライ人への手紙では、こ の旧約の祭儀には二つの欠陥がある、というのです。それは、聖所への道はすべて の人に開かれていない、ということと、その聖所での礼拝は礼拝をする者の良心ま で清くするものではない、ということです。確かに「臨在の幕屋」の至聖所には一 年に一度大祭司しか入れないものでしたし、神を崇め礼拝する外面的行為と、倫理 的な実践とは乖離し、神の民として心の中まで変えられ清くされるところまで行か ないという実情は、他人事ではなくわたしたちにもよくわかる人間の状況です。 これと対照的に、主イエス・キリストを通して可能になった礼拝は、「人間の手 で造られたのではない、この世的なものではない、さらに大きく、さらに完全な幕 屋を通り、御自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられた」と語られます。ゴ ルゴタの丘に建てられた主イエスの十字架、あの叫びは、大祭司として天に繰り広 げられた宇宙的な聖所での礼拝行為であり、その働きによって、すべての者の罪が 執り成され、贖いが成し遂げられるためでした。
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