レビ記 17:10-16 ; ヘブライ人への手紙 9:11-22+
主イエス・キリストの十字架の死、ゴルゴタの丘の情景は、人間の世界の出来事 そのものです。強盗と殺人のかどで死刑に処せられた二本の十字架の真ん中に立て られた主の十字架。その下を通る人々の嘲りの声、「他人は救ったが自分は救えな い、メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りてくるがいい。それを見たら 信じよう」と叫ぶ人々。その中で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨て になったのですか」と叫んで息を引き取られた出来事、福音書の伝える十字架の情 景は、ヘブライ人への手紙では、全く別の光景に見えています。それは、天の見え ざる聖所で、ただ一度、大祭司として来られた神の御子キリストによって、「大贖 罪日」の礼拝が成し遂げられた出来事なのです。地上の聖所では、一年に一度大祭 司が雄牛と雄山羊の血を携えて、至聖所に入り、義性の血を注いで罪の赦しを願う、 執り成しの行為が大贖罪日の祭儀でした。キリストの十字架の死は、まさにその死 によって、「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神 を礼拝するようにさせないでしょうか」と言われ、「永遠の贖いが成し遂げられる」、 救いを全うする行為だったのです。 旧約の祭儀で用いられる雄山羊や雄牛の血の独特の役割、すなわち、罪を贖うた めの義性の血、それによって結ばれる契約を確立する、という考えがこの背景にあ ります。犠牲の血は罪を贖い、清め、結ぶ仲介の働きをするのです。キリストがゴ ルゴタの丘で流された血は、まさに「契約の血」で、「キリストは新しい契約の仲 介者なのです」と語られ、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」 と続き、罪を赦され、「召された者たちが、すでに約束されている永遠の財産を受 け継ぐためにほかなりません」と、キリストの死の意義と目的が語られます。 現在、シリアで、アフガニスタンで、スーダンで、民族や部族の対立によって世 界の各地で多くの血が流されています。血が流されることなしに、民族の独立や主 権の回復、自立と自由は勝ち取られないのか、果たして流された血は、真にその目 的を果たすものなのか、無駄な、無意味な血が流されているのではないかと暗澹た る思いにとらわれます。キリストの血による贖いなしの世界、罪の贖いを拒絶する 世界からの回復、解放が望まれます。
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