レビ記 11:11-22 ; ヘブライ人への手紙 9:23-28
ヘブライ人への手紙は主イエス・キリストがわたしたちのために成し遂げて下さ った独特の救いの働きを、旧約の祭儀との比較の中で明らかにしています。主イエ スのゴルゴタの丘の十字架の情景は、「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離 され、もろもろの天より高くされた大祭司キリスト」が、人間から選ばれた大祭司 が年に一度、雄牛や雄山羊の血を携えて至聖所に入って、 神の前で自分自身と民全体のために、罪の赦しをこいねがうように、人間の手に よって造られた聖所ではなく、天そのものに入り、ご自身の血をもって、一度限り、 私たち全人類のために罪の贖いを成し遂げて下さった。これによって、永遠の贖い を全うし、礼拝する者の良心を完全に清くすることができるようになった、という のです。このようにキリストによって成し遂げられた救いは旧約の祭儀とは異なり、 はるかに優れたものであることが証しされますが、その根底には共通の考えが流れ ています。罪の赦しのためには生きているものの犠牲の血が必要であること、その 血によって罪のからの贖いが成し遂げられ、神との契約が新しくされる、という原 理です。一方では動物の血が献げられますが、新しい契約では人となられた神の御 子、キリストご自身の血が献げられることによって、永遠の贖いが成し遂げられた、 ということです。 9章23〜28の短いパラグラフに三度「現れて下さった」と言う言葉が出てき ます。「キリストは天そのものに入り、神のみ前に現れて下さった」(24節)、 「世の終わりに、ただ一度、ご自身をいけにえとしてささげて、罪を取り去るため に現れて下さった」(26節)、「二度目には、…救いをもたらすために現れて下 さるのです」(28節)。このような言葉をもって、キリストの現れ、出現の意義 を表しているのです。これによって知らされることは、キリストの現れは、神の前 での現れ、れ私たち人間のための現れと、二重の意味があるということです。神と 人との間に立って、神の前で罪の赦しを乞い、自らの血を献げることと、人の前に、 人のために、贖いが成し遂げられたことを示し、ご自分を待望している人たちに、 救いをもたらす現れとして、復活の姿を現されるのです。キリスト者の洗礼は、た だ一度の、この主イエス・キリストの贖いにあずかることです。
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