5月20日
2012年5月20日

「 キリストの体が捧げられることによって 」

詩篇 40:1-12 ; ヘブライ人への手紙 10:1-17


 ヘブライ人への手紙を通して、わたしたちは主イエス・キリストによって成し遂

げられた救いがどのような救いであるのかを学びます。その中心部分(7章〜10章)

で、旧約聖書にある祭儀の原理との対比において主イエス・キリストによってはじ

められた新約の救いの原理が解明されています。「わたしたちが冒した罪の贖い」

がどのように果たされるかが問題で、旧約の祭儀では、一年に一度、毎年大祭司に

よってささげられる雄牛と雄山羊の血によって罪の贖いがなされるのに対し、新約

では、一度限り、主イエス・キリストがご自身のからだを献げられ、十字架におい

て血を流されることによって、「永遠の贖い」が成就した、というのです。このこと

について、旧約の律法(このもとに旧約の祭儀が定められていました)は、「影が

あるばかりでそのものの実態はありません」として、「神に近づく人たちを完全な

ものにすることはできないのです」と断定するのに対し、キリストによって成し遂

げられた救いは、「キリストは唯一の献げものによって、聖なる者とされた人たち

を永遠に完全な者となさった」とその対比を明らかにしています。

 律法は影のようなもので実体はないという断定は、ユダヤ教的な生き方に対する

明らかな決別ですが、同時に、また、影は実体の輪郭を映し出しているという点で

は全く無意味と言うことではなく、影に救いを求めるのではなく、実体そのものに

心を向き変えて求めるよう促しがあります。律法が影だと断定される理由は、旧約

の祭儀によっては「これらのいけにえによって罪の記憶がよみがえってくるだけ」で、

礼拝をする者の良心を完全にすることができないからだ、と言われます。ヘブライ

人への手紙の著者は『良心』の清めを強調します。善悪を判断し決断し、決断した

ことについて責任を負う人格の最も深い部分、神の霊が作用する部分に主イエス・

キリストの血の贖いが作用し、私たちの人格を神へと向き変えさせ、変えて行くと

いうのです。「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するよう

にさせないでしょうか」(9:14)。「イエスは新しい道をわたしたちのために

開いてくださったのです。・・・心は清められて良心のとがめはなくなり、体は清

水であらわれています・・」(10:20f.)。キリスト教の救いの教理は、まさにこ

こに極まります。

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