エフェソの信徒への手紙5章6−20
クリスマスの時期、様々な形で思い起こされるのは光の情景です。ベツレヘムの 野原で野宿をしていた羊飼いは、大きな光とともに、救い主の到来を告げる天使た ちの声を聞きました。東方の博士たちは星の光を見て救い主としてお生まれになっ た方を訪ね、遠くユダヤにまで旅をしました。光なしのクリスマスは考えられませ ん。エフェソの信徒への手紙では、キリスト者の生活の仕方について語っている中 で、「あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。 光の子として歩みなさい」と語られます。キリストにあって生きるものも、光と深 い関係があり、光なしの生活は考えられません。 旧い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る、キリスト者の生活のあるべき姿は、「赦し 合いなさい、神がキリストにあってあなた方を赦してくださったように」、「神に 従うものになりなさい、神に愛されている子どもですから」、「愛によって歩みな さい、キリストがわたしたちを愛してご自身をささげられたように」と勧められ、 キリスト者の歩みが、苦労しながら前人未到の困難な山を登る式の歩みではなく、 目の前にいつもキリストの歩みがあるような、応答的な歩みであることが語られて きました。従って、キリスト者の生活は、「感謝をあらわしなさい」という一言に よって要約されます。 そのような方向で語られてきたところで、全く違う角度からキリストにある信仰 者の生き方について示されているが、この「光の子らしく歩みなさい」です。角度 の違いに注目して、思いめぐらすと、この言葉によってキリスト者が置かれている 状況がよくわかります。キリスト者は愛し合う、感謝するという、意志的な、行動 的な歩みを通して信仰者となるよりもさきに、「暗闇の中から驚くべき光の中に招 き入れてくださった」、「闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に入れ てくださった」というような全体的・包括的な状況に置かれているものであること が明らかにされているのです。暗闇の領域から光の領域に移されたものなのです。 光の中にいるものですから、暗闇のなかでは見えなかったものが見え、暗闇の中で はできたことが光の中では恥ずかしくてできなくなるでしょう。だから、「光の子 らしく歩みなさい」と勧められることになるのです。 よく注意して聞いてください。ここではキリストが光だから、光を見て歩みなさ いと言うのではなく、あなた方は、「主に結ばれて光となっている」というのです。