6月24日
2012年6月24日

「 来るべき方を待つ者として 」

イザヤ書 30:15-17 ; ヘブライ人への手紙 10:32-39


「あなたがたは光に照らされた後、苦しい大きな戦いに耐えた初めの頃のことを思

い出してください。」ヘブライ人への手紙は、目前に迫っている大きな試練に立ち

向かうために、主イエス・キリストがどのような方であり、どのような働きをされ

た方であるかを明らかにして、「信頼しきって真心から神に近づこうではありませ

んか」との勧めをすることが目的で書かれています。この書は信仰の初心者に向け

て書かれたものではありません。信仰の初歩を離れて成熟を目指して進みましょう」

(6:2)とあるように、経験を積んだ信仰者に対して語りかけています。使徒パ

ウロは、信仰者の歩みについて、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

神がキリスト・イエスによって上に召してお与えになる賞を得るために目標を目ざ

してひたすら走る」ことがなすべきこととして勧めています(フィリピ3:13)。

しかし、ここでは反対のことが勧められています。信仰のはじめの頃のこと、すな

わち、後ろのもののことを思い起こすように勧めているのです。前を向いたり、後

ろを向いたり、押したり、引いたり、まさに、揺れ動く人間の魂を導くための牧会

的な配慮のあり方を学ぶことができます。

 ここには、信仰のはじめの頃のことを「光に照らされた」と表現していることは興

味深いところです。6:4にも同じ表現があり、ヘブライ人への手紙の独特の表現

ですが、パウロのように光を経験した者でなくても、キリスト者が福音を聞いて信

じることが光に照らされる経験であったと共通して言えるのは確かです。光に照ら

されることによって暗闇から解放され、ありのままの姿を見、そして神の愛の熱が

伝えられて、魂が燃やされます。キリストの光に照らされ、愛にあたためられて生

きる信仰者の実生活は、「あざけられ、苦しめられ、見世物にされたこともあり、

このような目にあった人たちの仲間になったこともありました」とあり、初期の時

代のキリスト者のリアルな実態を知ることができますが、それに続いて、「実際、

捕えられた人たちと苦しみを共にし、また、自分がもっと素晴らしい、いつまでも

残るものを知っているので、財産を奪われても喜んで耐え忍んだのです」と書かれ

ています。このような状況の中で、しかも喜ぶことができる、その喜びと信頼の出

所はどこか、それがまさに「光に照らされた」ことに由来することに思い至ります。

わたしたちも光に照らされた者です。

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