12月7日
1997年12月7日

「キリストであるイエス」

マルコによる福音書8章27−38


「主なる神よ!あなたは高く偉大であるだけでなく、わたしたちと同じように低く

小さくあることも望まれ、支配するだけでなくわたしたちに仕えることも、永遠に

神であられるだけでなく、わたしたちのために人間として生まれ、生き、死ぬこと

も望まれます」(K.バルトの祈り)。

ベツレヘムの馬小屋に生まれ十字架によって刑死し三日目に復活されたあの人物に

対してわたしたちはイエス・キリストと呼びます。キリストは「油注がれたもの・

メシア」と言う意味で、それによってイエスという人物に対する最初期のキリスト

者の深い驚きと信仰の告白が込められています。

 しかし、イエスはこのように呼ばれることを厳しく戒めておられるのです。ピリ

ポ・カイザリアの途上で「わたしのことをだれというか」というイエスの問いにペ

テロは「あなたはメシアです」と答えたとき、マルコによる福音書によると、イエ

スはそのことをだれにも語ってはならないと厳しく戒めたこと、それから、「人の

子は多くの苦しみを受け殺される」と受難の予告をされ、ペテロがそれをいさめは

じめたこと、そしてイエスはペテロに「サタンよしりぞけ、あなたは神のことを思

わず人間のことを思っている」と厳しくしかられたこと、この対話はよく知られて

います。興味深いことに、ここでイエスが「厳しく戒めた」、ペテロが「いさめた」、

イエスが「しかられた」と訳されている言葉はみな同じ言葉で厳しい非難、警告、

叱責を意味する言葉です。すなわちここはイエスとペテロあるいは弟子たちとの非

難警告の応酬です。元来はこのようなものであったことを知ることは大変重要だと

思います。すなわち、ユダヤの王として政治的に勝利と解放ともたらす救世主・メ

シアの像に対してイエスご自身は多くの苦難を自ら引き受け、その打たれた傷によ

って多くのひとが癒されるような「人の子」としての歩みを全うすることを選びと

っておられるのです。

 パウロは当然のようにイエスをキリストと記します。しかしローマの信徒への手

紙やその他の彼の手紙をよく読むと、イエス・キリストとしたり、キリスト・イエ

スと逆にしたりさまざまに書き換えています。パウロにとっても王者として君臨す

るメシアではなく、「わたしたちが弱かったころ、定められたときに不信心のため

に死んでくださった、キリスト、メシア」は衝撃的な驚きなのです。

 わたしたちが主イエス・キリストと呼ぶとき、この主イエス・キリストの厳しい

禁止と、それでも敢えてキリストと呼ぶときのパウロの驚きを覚えていなければな

りません。


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