創世記 5:21-24 ; ヘブライ人への手紙 11:1-6
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人 たちはこの信仰の故に神に認められました。」 キリスト教会では信仰に基づいて共に礼拝し、互いの交わりがあり、奉仕の働き があります。「信仰とは何か」についてしっかりとした理解と同意がなければこの 共同体は成り立ちません。しかし、その信仰の本体をしっかりとらえることは簡単 ではありません。ヘブライ人への手紙のこの有名な言葉は、そのようなわたしたち に信仰の本体を捉えるはっきりとした見通しを与えてくれます。ここでは信仰につ いての哲学的な定義を示しているのではありません。また、信仰という精神作用に ついての心理学的分析が語られているのでもありません。信仰に生きる者に対して、 「信頼しきって真心から神に近づこうではありませんか」とのこの書の中心的メッ セージがあり、このことに向って励ますための牧会的な言葉として語られているこ とで、信仰者こそ、よくこの言葉を味わって、自らの信仰の姿勢を確かめ深めるこ とができます。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信すること」「見えない事実を確認すること」の 二つのことは互いに補い合って一つのことを言っています。信仰の内容や対象につ いて語っているのではなく、信じる者の姿勢、生き方が示されているのです。「確 信する」と言う言葉は原語では“ヒュポスタシス”で、確信するという主体的な行 為を表す意味と「実体や本質」を現す客観的な意味と二重の意味があり、1章3節 の「御子は神の本質の完全な現れ」と訳されたときの「本質」も同じ言葉です。と すると、「信仰とは、希望の本体、まだ見ていない事実の実証」と訳すこともでき ます。そのような意味の広がり、奥行きを考えながら、この言葉を味わうことがで きます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」 (ルカ12:32)と言う言葉を聞いて心に喜びと安堵、感謝を覚えて、今は何も 得ていなくても御父を仰いで生きて行くことができる、こんな不思議な、いや、こ んな自然の生き方ができるのが信仰だというわけです。信仰は、したがって、瞑想 と悟りのような静止的な姿で捉えられていません。前に向って、まだ見ない明日に 向って、確信を持って喜んで生きるダイナミックさ、この根源に、信仰の創始者、 完成者、そしてとりなし贖ってくださるキリスト・イエスがおられます。
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