創世記 22:1-19 ; ヘブライ人への手紙 11:17-22
ヘブライ人への手紙の中でも有名な言葉、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、 まだ見ない事実を確認することです」に続いて、信仰に生きた旧約の先人たち、ア ベル、エノク、ノア、そしてアブラハムの信仰の歩みが語られます。これらの信仰 者たちに共通している特徴、それは、この世では旅人、寄留者、客人であるという ことです。私たちが生きている社会、環境、国は、自分の故郷に住んでいるような ものではなく、よそ者、旅人として過ごしていることを「公に言い表している者だ」 と言うのです。それは、また、天の故郷、神が備えてくださる都を目指して旅をし ている旅人だ、ということです。人の世の無常を悟り知って漂白の旅に出るという のとは違います。「この人たちは信仰を抱いて死にました。約束のものは手に入れ ませんでしたが、はるかにそれを見て、喜びの声をあげ、地上ではよそ者であり、 仮住まいの者であることを公に言い表したのです」とあります。 この信仰を表したアブラハムの生き方の検証第4は「信仰によってアブラハムは 試練を受けたとき、イサクを献げました。」あのアブラハムの生涯の最大の試練を 取り上げています。これまでの信仰の検証で明らかになったことは、信仰とは神の 命令に従い、約束を信じて前に向かって歩みだすことでした。しかし。ここでは神 の約束と信頼を根底から覆すような要求を、ほかならぬ神が命じるのです。アブラ ハムにとってイサクはまさに約束の子、神に与えられた奇跡の子でした。イサクの ゆえに神は信頼するに値する存在であり、感謝と喜びの源泉でした。そのイサクを 献げるように神は求められる。アブラハムを襲った試練は、彼の信仰を無意味なも の、根拠のないものにするに十分です。アブラハムが試されたのは、実証と実績を 根拠に信仰が生じるのか、神を神として信じる故に生きるのか、この究極の決断を することです。アブラハムがイサクとともにモリヤの山に薪と火を持って登ってゆ く時、イサクはアブラハムに問います。「お父さん、薪と火はあるけれど、焼き尽 くす捧げものの子羊はどこにあるの。」アブラハムは答えます。「子よ。それはき っと神が備えてくださる」と。ヘブライ人の手紙の著者は、これを「神が死者の中 から生き返らせることがおできになると信じたからです」と解説しています。主イ エスの死と復活を通して神を知った者は、このように語ります。
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