ヨシュア記 6:1-27 ; ヘブライ人への手紙 11:30-38
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人 たちはこの信仰の故に神に認められました。」この言葉に続いて旧約聖書の人物の 信仰の歩みが例証されますが、特にアブラハムとモーセの信仰のあり方が多く取り 上げられています。モーセに率いられてイスラエルの民がエジプトを脱出し、約束 の地カナンにはいるまでの出来事のさまざまな場面で信仰が語られます。エピソー ド第3は王の怒りを恐れることなく、エジプトを立ち去った事、第4は出エジプト を決定的にした最後の災いの事、エジプト中の王座に座っているファラオの初子か ら牢獄に繋がれている捕虜の初子まで、また家畜の初子までことごとく死の天使に 撃たれて死んだ出来事、主の民は家の入口の柱と鴨居に子羊の血を塗って死の使い を過ぎ越し、死の闇が支配するエジプト中の悲嘆の中を脱出したのでした。エピソ ード第5は神の杖をかざして紅海を二つに分け、ついに渡り終わったところで二つ に分かれた海がもとに戻ってエジプトの軍勢を飲み込んでしまった出来事、第6は エリコ陥落の出来事です。 これらの出来事は、出エジプト記や民数記の記述を読めば、簡単に、一途に信仰 の歩みとは言えない、多くの戸惑いや葛藤、不信と同様の中で歴史が進んで行った ことはすぐに思い起こされます。ファラオとの対決にしても、神の杖を手にして、 ナイルの水を血に変えたり、イナゴやあぶや疫病など10度も繰り返される災いの 末、最後の闇の中の出来事によって、やっと脱出することができたのです。その間 にモーセの戸惑いがあり、イスラエルの民の動揺がありました。紅海を渡る時も後 ろに迫るエジプトの軍勢を見て恐れて叫んだのです。その中で一貫して主役はモー セではなく、強い手で導き出す主なる神であったのです。「その夜、主は彼らをエ ジプトの国から導き出すために、寝ずの番をされた」とあります。その御手を信じ 委ねること、ここに信仰がありました。モーセの手に神の杖があり、それを伸ばす 時にさまざまな奇跡が起こりました。信仰とは、神の杖を手にすることなのか、神 の杖を信じることなのかと誤解されそうです。しかし、信仰は杖の故に神を信じる のではなく、神の導きを信じ、委ねる故に、単なる杖が神の杖に変わるということ をモーセの出来事は示しています。神の杖の不在を理由に、不信仰に陥ることはで きないのです。
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