8月12日
2012年8月12日

「 途上の信仰 」

イザヤ書 45:1-25 ; ヘブライ人への手紙 11:32-48


「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人

たちはこの信仰の故に神に認められました。」この言葉に続いて、旧約聖書の人物、

アブラハムやモーセなどの信仰の歩みが例証されますが、最後にギデオン、バラク、

サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たち、とまとめて名前を挙げて、

これらの士師記やサムエル記に出てくる人たちが信仰によって、勝利し、正義を行

い、約束のものを手に入れたことが記されます。しかし、実際にここに名前を挙げ

られた人々の生涯は一途に信仰に従って生きたというようなものではなく、多くの

破れを含むものです。このような人を生かし用いる神の愛と、その導きに従って危

機を乗り越えて行った人々の列伝というべきでしょう。信仰によって勝利した人々

だけでなく、信仰によって苦難や死に耐えた人々のことも記されています。「更に

まさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、

他の人にあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

・・・世は彼らにふさわしくなかったのです」と。信仰について語る時、勝利や豊

かさの報いが語られるとともに、苦難、窮乏、危機の中で生き抜いて行く強さと希

望のありかとなることが教えられます。信仰を生きるということは、この世のふさ

わしさとは異なる基準と目的をもつものであるゆえに、このような苦難がある、と

いうのです。旅人、寄留者の歩みなのです。

 この章の最後の結論には驚かされます。「この人たちはすべて信仰の故に神に認

められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神はわたしたちのため

に更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては彼らは完全

な状態に達しなかったのです。」この章全体に挙げられた信仰の達人たちの歩みは、

すべて「約束のものは手に入れなかった」、「完全な状態に達しなかった」と断定

し、それに比して「わたしたち」は神が計画した更にまさったものを手にしている

ので、わたしたちを除いては彼らの信仰も不完全だ、というのです。「わたしたち」

とはどのようなわたしたちなのでしょうか。更にまさった計画とは何なのでしょう

か。それは言うまでもなく、主イエス・キリストのこと。ただのわたしたちなので

はなく、大祭司なるキリストの執り成しをいただき、罪の赦しと復活にあずかるわ

たしたちです。

秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る