9月2日
2012年9月2日

「 信仰とは 」

箴言 3:1-12 ; ヘブライ人への手紙 12:4-13


 父なる神を信じて生きる信仰生活を、生涯を貫くレースにたとえたヘブライ人へ

の手紙は、更に、レースのために懸命に練習し、命がけで戦うアスリートのように、

鍛錬して戦い抜かなければならいことを教えます。そうしなければ「ご自身の神聖

にあずかること」も、「義という平和に満ちた実を結ぶこと」もできない、という

のです。そのための苦労は、「主の鍛錬として耐え忍ぶように」と。疲れた顔で、

腰を落とし、トボトボとふらつきながらよろめき歩くような歩みではなく、背筋を

伸ばして、一直線にキリストを目指して走り抜くように勧めるのです。聖書の中に

は苦難や艱難に遭うときに慰めになる言葉がたくさんありますが、ここでは他者依

存的な慰めではなく、自ら進んで苦難を引き受け、自らを鍛え鍛錬することが必要

であることが強調されます。「主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめら

れても力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け

入れるものを皆、鞭打たれるからである」と。確かに、主を信じて生きる生活には

戦いがあり、安逸を排して勝ち抜いてゆくためには鍛錬が必要です。信仰生活の途

上で出会う艱難こそ、その「鍛錬」の機会であり、それは、主が子として受け入れ、

ふさわしいものとなるための愛の訓練なのだ、というのです。「鍛錬」という言葉

が7回も出てきますが、この言葉のギリシャ語(パイデイア)の語源は「子ども」

です。子どもの教育には、厳しくきたえ、鞭打つことも必要と考えられていました

ので、鍛錬が「子として愛するがゆえに」という理由も、その言葉から明らかにな

ります。

 誰でも、人生の途上で艱難、苦難に出逢わない人はいません。生老病死、四苦八

苦、すべてのことが苦難の種になります。わたしたちは何ゆえにこのような苦難が

自分に降りかかってくるのか、と苦難の意味を問わずにはいられません。ここでは、

それは、父なる神と無関係に起こることではないこと、神の深い関心と愛から来る

こと、神の訓練であり、それによって主なる神の神聖と平和の実を結ばせる目的の

ためである、と苦難の受け止め方が示されています。いや、ここでは、ただ降りか

かってくる苦難の受け止め方を教えているだけでなく、進んで苦難を鍛錬として引

き受けて、信仰の歩みを走り抜くことが求められているのです。


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