レビ記 19:1-18 ; ヘブライ人への手紙 12:14-17
主イエス・キリストによって開かれた新しい生きた道を、すべての重荷や絡みつ く罪をかなぐり捨て、様々な艱難を神が父としての愛によって与える訓練として耐 え忍ぶようにと信仰の戦いを勧めるヘブライ人への手紙の著者は、さらに、「平和 と聖なる生活を追い求めるように」との勧めを重ねます。戦いの勧めから平和の勧 めへと方向転換しているのではありません。キリスト者のこの世における戦いの内 実は、何を追い求めての戦いであるかが明らかにされているのです。すなわち、そ れは平和であり、また聖なる生活だ、というわけです。わたしたちが主にあって求 める平和は、言うまでもなく、戦闘状態の停止ということではなく、主イエス・キ リストによって成し遂げられた和解の現実が全ての世界に実現する、そのような終 末的な事態です。そして、そのことを実現するためには、「聖なる生活」の実証が なければならない、と基本的な筋道を教えています。わたしたちの日常の歩みの中 で「聖性」を追い求めて生きるということはどのような生き方をするのか、そのた めにどのような修練をするのか、これが問題です。 旧約の民イスラエルが、共同体の聖性を保つためにどんなに大きな注意と努力を 払ったかはよく知られています。「主であるわたしは聖なるものであるから、あな たたちも聖なるものとなりなさい」という神の命令のもとに、生活の細部に至るま で律法と戒めによって規定された生活をし、そのことによって神を知らない民とは っきり区別される生き方をしてきました。数々の禁止事項の中に設定された狭い空 間の中で、自由と誇り、内なる衝動への耐えざる不安と息苦しさ、他者への監視に 生きていたのです。主イエス・キリストにあって新しい生きた道を走る者が追い求 めるべき聖性は、これとは違います。聖性を求める訓練も、これとは違います。根 本的な違いは、自分自身の心と行動を数々の律法を守ることによって律し、自らの 力で聖性を獲得することにあるのではなく、主イエス・キリストによって成し遂げ られた贖いにあずかり、キリストの霊によって与えられる自由の霊にあずかって生 きることころにあります。信仰の戦いは、自分や他者ではなく信仰の創始者、また 完成者である主イエスを目指して走ることにあると、この章の最初に語られたこと は真実です。
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