10月21日
2012年10月21日

「 わたしは良い羊飼い 」

詩篇 23 ; マタイによる福音書 10:11-18


 日曜学校の礼拝では、「イエスさまの自己紹介」というテーマで聖書の言葉を聞い

ています。自己紹介は自分がどんな人かを明らかにして、交わりの道を開きます。

イエスさまはどんなふうにご自分のことをわたしたちに示して、わたしたちと交わ

りをもちたいと思っておられるのでしょうか。イエスさまの自己紹介の言葉、「わ

たしは良い羊飼いである」を通して、イエスさまはわたしたちと生きた交わりを求

めておられます。

 旧約聖書の中にも、神さまはわたしたちにとって羊飼いのようだ、羊飼いが羊を

大切にして、青草の原や憩いの水のほとりにともない、養い導くように、わたした

ちを導いてくださることが教えられています。だから、死の陰の谷を行くような、

怖い経験をするときにも、恐れることはない、神さまが共にいて、魂を生き返らせ

てくださるからだ、というのです。この言葉によって、どれほどわたしたちも慰め

られ力づけられることでしょう。

 イエスさまが、「わたしは良い羊飼いである」と言われるとき、どのような意味

で「良い羊飼い」なのでしょう。二つの意味でよい羊飼いだというのです。良い羊

飼いは、「羊のために命を捨てる」ということと、「よい羊飼いは羊のことを良く

知っていて、自分の羊の名を呼んで連れ出す」、ということです。イエスさまは良

い羊飼いとして、わたしたちをただ知っているだけでなく、ただ共にいてくださる

だけでなく、よく知っていて、名前を呼んでくださる、そんな深いきずなでわたし

たちを導いてくださるのです。

「羊のために命を捨てる」良い羊飼いということには驚かされます。狼が襲ってく

るようなときに命がけでオオカミに立ち向かって戦い守るのはよい羊飼いなら当然

です。でも、それは大切な自分の財産である羊を守るためで、それくらいの覚悟は

わたしたちのお父さんやお母さんにもあるでしょう。でも、イエスさまは、わたし

たちの良い羊飼いとしてそれだけの覚悟があると言っているのではありません。羊

飼いが羊を大切にするのは、羊によって自分の生活の糧を得、命を養うためだから

です。神さまを礼拝するときには羊の血を注いで自分の罪の赦しを願いました。羊

の命を身代わりにして自分の命を救ってもらったのです。しかし、よい羊飼いであ

るイエスさまはこの羊と羊飼いの関係を逆転させています。羊飼いが羊のために命

を捨てる、というのです。そのように羊を愛し、羊の魂を生き返らせてくださるの

です。何と不思議なことでしょう。イエスさまはわたしたちを、ただ共にいますと

か、真剣に思っていますとか、命がけで愛しています、という決意や言葉がけをす

るのではなく、「命を捨てる」という行為、普通の羊飼いではありえないような関

係を通してわたしたちのことを知り、わたしたちのために命を与えてくださり、愛

してくださる方だというのです。

 イエスさまは、このように自己紹介をしてわたしたちとの交わりを求めておられ

ます。今度は、わたしたちの方がイエスさまにお応えする番です。わたしたちが自

己紹介をする前に、よい羊飼いであるイエスさまは知っておられますから、わたし

たちはその方に従って行くだけでいいのです。

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