イザヤ書 25:6-10 ; ヨハネの黙示録 21:1-8
召天者を記念するのは、故人をしのんでその生涯を想い起こし、わたしたちの思 いを過去に向けます。しかし、キリスト者にとって記念の礼拝はむしろ召天者をと おしてこれから来る将来のことの方に目を向けます。墓を超えて向こうにあるもの、 まだ見ないことを見る時なのです。 ヨハネの黙示録はローマ帝国のキリスト教会に対する大迫害の時代、仲間が殉教 した話が聞かれ、自分たちにもその時が来ることを予感しながら生きていた時代の 教会に宛てて書かれた文書ですが、その最後のところに、今わたしたちが生きてい る世界、この天と地は過ぎ去り、「新しい天と新しい地」が出現する壮大なスペク タクルが展開されています。「わたしは、また、新しい天と新しい地を見た。最初 の天と最初の地は去ってゆき、海もなくなった。」 ここで見者が見たのは、肉体の目で現実にあるものを見たのではなく、幻、黙示 を見たのです。まだ見えない現実を、将来起こるはずの現実を見て、しかし、おぼ ろげでにではなく確信を持って、「見た」と語っているのです。信仰者の確信とは、 まさにそのようなものです。どうして、その確信が持てるのか、それは明らかです。 「書き記せ、これらの言葉は信頼でき、また、真実である」という天からの声、ア ルファでありオメガである方の確証によるからであり、また、そこで見たものは既 に預言者たちによって預言されている内容であるからです(イザヤ書65:17〜20 etc. )。 新しい天と新しい地が出現するとき消え去るべき最初の天と地はどのようなもの であるか、それは「海」(「光あれ」との言葉とともに始まった世界創造の前にあ った混沌と闇の海、想像を超えた怪物の住む海)、そして、涙、死、悲しみ、嘆き、 労苦に満ちた世界です。それらのものが過ぎ去り、人の目から涙をことごとく拭い 去ってくださる、と慰め深い言葉が続きます。新しい天地が出現するとき、その中 心にある新しいものは何か。それは、新しいエルサレムが花嫁のように整えて天か ら下ってくること、神の幕屋が人と共にあり、神は彼らとともに住み彼らの神とな られること、です。そこには、もはや死はなく、悲しみも、嘆きも労苦もない、と。 これはまさに、わたしたちの見るべき天と地、これから向かうべきときがこのよう に記されているのです。
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