サムエル記下 23:1-7 ; ヨハネによる福音書 18:28-40
主イエス・キリストを十字架につける最後の判決は、ローマの総督ピラトによっ て発せられました。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ ・・」と使徒信条によって世々の教会にその名を記されている通りです。しかし、 ピラトの裁判とはどのような裁判であったのか、ヨハネによる福音書を通して見る と、それは被告人と裁判官の対話というべきものではなく、「真理とは何か」とい う実存的な問いをピラトのうちから出させるような対話になっていることに驚かさ れます。死を前にした主イエスの、ピラトの魂への配慮が示されているのです。 「お前がユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに始まり、「あなたは自分の考 えでそう言うのですか、それとも、ほかの者がわたしについてそう言ったのですか」 という主イエスの問い返しがあり、「わたしの国はこの地には属していない。・・・ わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」といった主の 言葉による奇妙な対話によって、唐突に「真理とは何か」という問いがピラトから出 されています。 真理とは何か、という問いは人類永遠の問いです。正しいこと、確実であること、 信頼に値すること、誠実であること、ものごとの道理、それはいったい何なのか? と問い、真理に生きることなしには、人は生きることにはなりません。ヨハネによ る福音書では、主イエスは「言が肉体をとってわたしたちの間に宿られた。わたし たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満 ちていた。・・・恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と語られ、また、 主イエスご自身が「わたしは道であり、真理であり、命である」と語っています。真 理は、ただ「思惟と存在、認識と対象の一致」ということや、「人間生活において 有用な結果をもたらす観念」といった抽象的なものではなく、人格的なもの、真実 なもの、信頼に値いし、命をもたらすもの、神に根ざすものです。主イエスは、一 人の人間であるピラトに問いかけ、人間としての応答を求めておられます。 しかし、「真理とは何か」というピラトの問いは、突然打ち切られ、宙に浮いたま ま、次の場面に向かいます。真理の在処に招かれながら虚偽に偏して判決を下す無 責任さを露呈します。十字架によって負われるべき人間の罪の姿を垣間見ることが できます。
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