イザヤ書 12:1-6 ; ルカによる福音書 3:1-18
バプテスマのヨハネは、主イエス・キリストの到来を前にして、その道備えをし た人です。この人のヨルダン川一帯の伝道が、主イエスの宣教と直接に結びついて いることを福音書は証しています。ヨハネは「主の道筋をまっすぐにすることによ って、人はみな神の救いを仰ぎ見ることができる」という預言者イザヤの預言に従 って、その働きをしたといわれます。それはどのような働きだったのでしょうか。 ヨハネの語る言葉は極めて激しく、また権威あるものでした。集まってくる人々 に「蝮の子らよ」と呼びかけ、迫ってくる神の怒りの裁きのときから逃れようもな い現実を明らかにし、悔い改めを促し、悔い改めにふさわしい実を結ぶように、と 迫ります。神の裁きのリアリティーを示し、全身全霊を神の光の下に照らされたも のとして魂の覚醒を促し、日常生活全体の方向転換を促しました。彼の語る神への 立ち返り、方向転換は、きわめて日常的かつ庶民的なものです。下着を二枚持って いるものは持たない人に分けてやり、食べ物を乏しいものと共に分け合い、徴税人 には不正な取立てをしてはならない、とか、兵士には民衆を痛めつけてはならない といったことで、権力者の不正や横暴に苦しめられている庶民の怒りを代弁するよ うな、鋭い正義の感覚が読みとれます。旧約の預言者たちの正義の感覚に通じる、 神の民としての社会的正義を実現し、また健全な共同体の回復を目指すものといえ ます。このような健全な共同体の回復の願いは、今日でも、どの社会にあっても共 通するものがあるでしょう。 注目すべきことは、このような社会的正義の回復の要求が、権力者の不正や横暴 への怒りと、そのような権力構造の打倒を目指す方向にではなく、「罪の赦しを得 させる悔い改めのバプテスマ」に向かわせているということです。社会の悪や他者 の不正を指弾し打倒するために立ち上がるのではなく、一人ひとりの魂を神の前に 呼び出し、神に造られ神に向かって生きている魂の覚醒を促し、それぞれが生きて いる社会の中で平和の道にしたがって生きるようにと勧めています。バプテスマは、 水の中に体を沈めるという外形的なきよめの行為を通して、罪の自覚と方向転換へ の確かな決意、神の御心に従った新しい生き方の志向を伴う内面的な決意の印です。 ヨハネの「荒れ野に叫ぶ声」は今も響いています。
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