12月30日
2012年12月30日

「 父の家に安らう少年 」

サムエル記上 2:18-26 ; ルカによる福音書 2:41-52


 クリスマスが過ぎて新しい年に向かうこのとき、主のみ言葉は、福音書の中で唯

一、主イエスの少年時代のことを記した言葉から与えられます。ベツレヘムで生ま

れ、ガリラヤ地方のナザレの町で母マリア、大工の父ヨセフの家庭に育った、聖霊

によって身ごもった神の子イエスはどのように育ったのか、興味深いところです。

ユダヤ人の子供は13歳になるとバル・ミツバの礼拝をして成人の仲間入りをしま

す。その前の年の12歳のとき、過越祭に家族や街の仲間みんなとエルサレムに行

った時のエピソードをルカは記しているのです。祭りが終わってみんなが帰ってい

ったとき、「少年イエスはエルサレムに残った」のです。ここに、わたしたちは思

春期を迎えたイエスの成長の姿を見ます。自分は一体何者なのか、何のために生き

ているのか、自分がいるべき場所はどこなのか、それらの人間としてこの世に生き

ているものにとって本質的な問いが心に渦巻いている様が推察できます。ここで、

少年イエスは、両親や親戚、旅の仲間とは離れて、自分だけがエルサレムに残ると

いうみんなを驚かせ、戸惑わせる行動に出たのです。親や親戚など、周囲の期待や

思惑に反抗するのはこの時期の少年によく見られますが、少年イエスもこのような

自己確立の過程を持っています。イエスのいないことに気づいた両親が三日目にや

っと神殿の中にいるイエスを見つけ出したときの母との会話、

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して

捜していたのです。」

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのが当たり前だという

ことを知らないのですか。」

 お互いの会話の中に怒りと棘が含まれています。反抗期の子供を持つ母子の会話

です。しかし、ここに少年イエスの中に真の父を求め、どこに向かって生きなけれ

ばならないかの明確な方向が確立していること、神殿の学者たちに問い、語り合う

ことに熱中して時間を忘れる人として成長している姿を見ます。母マリアの心配や

心遣いも、。まさにこの世の母親そのものです。本当の父ではないヨセフに気遣う

マリア、子供の成長についていけない母マリア。このような人間の心を身近に経験

する神の子イエスは、まさに人の子イエス、友なるイエスとして人の世に生きてい

ます。

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