12月14日
1997年12月14日

「第二のアダム、イエス・キリスト」

ローマの信徒への手紙5章12−21


 イエスという方をどのような方と認識し、信じるか、との問いに対して、パウロ

はわたしたちが思いつきもしないような答えを教えてくれます。イエス・キリスト

は「第二のアダム」だというのです。ローマ5章とコリント一15章のそのことが

でています。「アダムは来るべき者のタイプ−型−である」といいます。

 アダムという人間によって代表されるタイプ、それは人間そのものです。神によ

って造られ、特別の愛と大きな責任とを与えられましたが、罪によって全人類に死

がもたらされました。わたしたちは「アダムの裔」です。このような人間のタイプ

とイエス・キリストとは全く違う人間のタイプではないでしょうか。一方はひとり

の罪によって多くの人が死ぬことになった罪の原型、他方はひとりの人の従順によ

って多くの人が正しい者とされ命を得ることになったのです。一方は死の方向に向

かうタイプ、他方は永遠の命に向かうタイプ。一方は全ての者を滅びに引き込むタ

イプ、他方は全てを救いにいたらせるタイプです。一方は天に属し、他方は土に属

します。一方は肉の者であり、他方は霊の者です。罪のタイプと恵のタイプ、この

ように全く相容れない二つの人間のタイプがアダムとキリスト・イエスによってあ

らわされているのです。それにもかかわらず、パウロはアダムは来るべきキリスト

のタイプだといいます。それは何故か、主イエスにおいてキリストがアダムの人間

性を引き受けているからです。天の人、霊の人として見えざる高みにおられること

にとどまらないで肉を持つ人、激しい涙と血をもって試練の中にあって祈り、従順

を学ぶ人となられました。アダムとキリストが二つの対立項の中にとどまるのでは

なく、キリストの方がアダムのタイプを引き受けて罪と死の中に身を置いて下さっ

たのです。ここで対立する両者の線が交差しています。交差しながら全く異なる波

及効果を全人類にもたらします。一方は罪と死、他方は命と義とを。

 パウロはこのようにキリスト・イエスの存在の意義を捉えました。そのように捉

えることによってどのような益がもたらされたのか、それはキリストの十字架と復

活によってもたらされたものが、ユダヤ人だけのものではなく全人類のものだと確

信させるものでしたから、今日、わたしたちもキリストを主と告白し、主にあって

与えられる命こそ真の命と感謝をもっていいあらわすものとなっています。そして

罪人でも主イエスにあって命と義にあづかっても良いことが確信されるのです。

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