12月21日
1997年12月21日

「わたしたちの主であるイエス・キリスト」

エフェソの信徒への手紙1章15−2章10


 クリスマスは、全世界の人々が飼い葉桶の中に寝かされている、最も助けを必要

とする、最も弱々しい姿の赤ん坊に注目し、「すべての人を救う救い主がお生まれ

になった」とよろこび感謝する不思議な日です。キリスト者はイエスについて、「

われらの主」とよび、「主の主、王の王」として礼拝します。イエス・キリストを

「主」と告白することによって、何が語られ、何を認識しているのでしょうか。

 エフェソの信徒への手紙では「どうかイエス・キリストの神、栄光の源である父

が・・・心の目を開いてくださるように」と祈っています。確かに、父なる神が、

聖霊が目を開いてくださるのでなければ、あのイエスこそ「主の主、王の王」と心

から認識し告白する事はできません。イエスのわたしたちと同じ人間として地上を

歩まれる姿は、あの飼い葉桶の中に寝かせられたときから十字架の死に至るまで、

神の子の栄光の輝きはなく、見るべき姿もありません。その輝きが見えるのは、あ

の東の博士たちのように、まさに神によって導き出され、神が目を開いてくださっ

た人であって、この人たちにとっては大きな喜びにあふれるような出会いが与えら

れるのです。イエスを主と告白するということは、この世の栄光や栄華の輝きによ

っては見えないもの、むしろその栄光がもたらす暗い影を知っているが故に、味わ

っているが故に、見えるようなものです。それゆえに、わたしたちも、苦難の中で

激しく祈らなければなりません。「知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることがで

きるようにし、心の目を開いてくださるように」と。

 イエス・キリストを主と告白することは、単に個人的な慰めや愛を感じ、私的な

領域だけで通用するような密やかな帰依といった性格のものではありません。先の

エフェソの手紙の祈りの続きで、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる

神の力がどれほど大きなものであるかを悟らせてくださるように」とあります。イ

エスを主と告白する事は、この世界の中に圧倒的な力の広がりをもって現実的な支

配があることを認識すると言うことです。神は十字架にかかったあのキリストを死

人の中から甦らせて、「天においてご自身の右の座に着かせ、すべての支配、権威、

主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世においても唱えられるあらゆる

名の上におかれました」と語られます。これはただ人間の私的な世界、精神世界だ

けでなく政治、経済、社会のあらゆる領域において、力と力がせめぎ合い闘争する

世界においても、キリストの名こそ、まことの主であること、どの力もその主のも

とでなければ力がないことを明らかにしています。

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