コロサイの信徒への手紙1章9−23
イエス・キリストをだれというか、どのような方と信じるかについて、コロサイ の信徒への手紙の中で極めて特徴のあるキリスト告白が記されています。「御子は 見えない神のかたちであり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあ るものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御 子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られました・ ・・・。」 ここで語られているイエス・キリストは歴史的・人格的に描き出されるものとは 違います。ナザレのイエスがどこで生まれ、どのように死に、どのようなことを行 い語ったかについて描かれているのではありません。また、イエス・キリストとい う人物の生と死によってなされたことによってもたらされた結果、その救いがどの ようにわたしたちに希望を与えたかということについて語っているのでもありませ ん。もっと大きなキリスト、宇宙的な広がりの中で語られるキリストです。しかも、 歴史的なキリストの存在の時間の枠を、世の終わりに再臨されるキリストとして時 間の後方に押し広げられただけでなく、ここでは、創造のはじめから存在し、すべ てのものが御子によって、御子のために造られたというのですから、キリストの存 在が歴史的には未だ存在しなかった時間の前方に向かって押し広げられているので す。聖書の中にはこのように歴史的・人格的なキリスト、あるいはわたしの救済者 としてとらえるだけでなく、キリストを宇宙的な広がりで捉える捉え方がよく出て きます。歴史を超え、神から遣わされて神の御業を成就したキリストの像です。 創造者であるキリストを知ることによって、どのような益を得ることができるで しょうか。イエス・キリストが創造のはじめからおられ、すべてのものが御子によ って御子のために造られたと知ることは、この世界のすべてのものは、この方のみ 旨によって生き、動き、存在するのですから、一見意味のないもの、暗く醜悪で恐 ろしいものもまた、この方の支配のもとにあり、治められているということです。 主に信頼しているならば恐れることはないことを知ることができます。わたしたち が主キリストに出会ったのは、わたしたちの意志により偶然出会ったのではなく、 わたしたちの悔い改めと回復、解放を願う創造者の情熱によるものであることも確 信することができます。さらに、万物は主にあって、主のために造られているとす るならば、自然との関わり方も変わってきます。自然を自分のために勝手に利用し、 人間中心的に自然の命を操作することはできないことを知ることができるからです。