1月13日
2013年1月13日

「 空虚な生 」

コヘレトの言葉 1:1-18 ; コロサイの信徒への手紙 2:6-15


「空の空、空の空、一切は空である」という言葉に始まるコヘレトの手紙の講解を

はじめます。神の造られた世界は、何一つ無駄なものはなく、すべてのもののうち

に確かな意味と目的がある、という聖書の中心思想とは全く違った世界観、人間観

がこの書から聞こえてきます。ダビデの子で「コヘレト」(説教者)という人の言

葉となっていますが、実際は、ダビデの時代よりもはるかに後の時代の文書で、ヘ

レニズムの時代の「知恵文学」に属し、集会で説教をする人、あるいは伝道者とい

うより、心の空しさをつぶやく人、ツウィッターです。仏教的な「空」の思想にも

近く、日本人にはなじみ深いものといえます。「太陽の下」にある世界、一筋縄では

行かない人生の複雑さ、正義と公正が支配し、秩序ある世界とはいえない現実、人

生の深みが捉えられていて、深い共感へと導かれ、この世界を生きてゆく覚悟が迫

られます。

 この書には「空」(ヘブル語でハベール)という言葉が38回も出てきます、さ

まざまな空虚な世界の現実、空の諸相が描き出されています。コヘレトは何をもっ

て空というのか。食べものや飲むものがなくて空腹や渇きを嘆いているのではあり

ません。社会的な地位や富を持つことができないゆえに、空虚だ、空しいと嘆いて

いるのでもありません。コヘレトの空虚感はもっと内面的なもの、霊的なものです。

毎日繰り返される朝と夜、風の流れ、水の流れあくことのない繰り返しに過ぎない

自然を見ながら、「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦は何になろう」と、

人の働きも単なる繰り返しに過ぎず、真の益を生み出すものではない。この世界に

真に新しいものはない。世代から世代に移り変わり、前の時代の労苦はすべて忘れ

去られる。このような存在の無意味さ、無益さ、無目的性、限界性を嘆いてやむこ

とがないのです。コヘレトは、世界と生との空虚さを認識し、そのうちに安住する

ことができません。彼にとって空を認識することは悟りや救いではないのです。人

間のこの空であることの嘆きはどこから来るのか。太陽や水の流れや風の動きに潜

む無限のエネルギーに感応し、自らの生命もその中におかれていることに感謝して、

これをいかに生かすかに心が向かないのはなぜか。人間の空虚を感じ、嘆く心のう

ちには、絶対者となることへの願い、創造の始源たる神ならぬわれを嘆く心が潜ん

でいることに気づかされます。

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