コヘレトの言葉 1:12-18 ; ローマの信徒への手紙 1:18-23
「空の空、空の空、一切は空である」という言葉に始まるコヘレトの手紙の講解を コヘレトはイスラエルの王として、忠実に勤めを果たします。「天の下に起こる すべてのことを探求し、知恵を尽くして調べた」のです。その結果として得られた 総合的判断が、「わたしは太陽の下で起こることをすべて見極めたが、見よ、、ど れもみな空しく、風を追うようなことであった」ということです。コヘレトの空の 認識は、何かに挫折してふと漏らすような一時的なものではなく、長く、深く、広 い体験と思索の結果得られたもの、また、その結果は王として国を導くための重要 な知見となるものです。 コヘレトの感じる空しさは、太陽や風、水の流れなど、外界の自然の観察から来 ています。同じことの繰り返しに過ぎないそれらの運行から、「なんという空しさ!」 と嘆くのです。これは、他の聖書の言葉とはまったく違った観察です。「天は神の 栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…話すこともなく、声は聞こえなくても、 その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向う」(詩篇19)、「雨も雪もひとたび天 から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂 らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える・・・」(イザヤ書55:10〜13)。 同じ自然の対象物を観察していますが、まったく違った結論がでており、その両方 の観察が、聖書の中で、意味のある、権威のある言葉として語られているのです。 コヘレトの観察は、自然の観察から人間の生きる姿、歴史の観察に移ります。そこ でも、「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起 こる。太陽の下に、新しいものは何一つない。・・・昔のことに心を留めるものは ない。これから先にあることも、その後の世には誰も心に留めはしまい」と断じ、 「なんと空しいことか」と嘆くのです。現代に生きるわたしたちも、このような空 虚感をどこかで感じない人は少ないでしょう。このような空であることへの耐え難 さは、自分という人格の存在の絶対性、永遠性を求めてやまない人間の根源にある 欲求から生じるものと言えるでしょう。しかし、その欲求が満たされることは根源 的に遮断されているのです。「太陽の下には何一つ新しいものはない」確かにそうで す。しかし、わたしたちは、「太陽の下」にある世界を見ることにとどまらず、その 太陽を創造され、太陽の光の下にすべてを創造された見えざる神を見ることへと促 されます
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