1月20日
2013年1月20日

「 知恵も知識も狂気 」

コヘレトの言葉 1:12-18 ; ローマの信徒への手紙 1:18-23


「空の空、空の空、一切は空である」という言葉に始まるコヘレトの手紙の講解を

 コヘレトはイスラエルの王として、忠実に勤めを果たします。「天の下に起こる

すべてのことを探求し、知恵を尽くして調べた」のです。その結果として得られた

総合的判断が、「わたしは太陽の下で起こることをすべて見極めたが、見よ、、ど

れもみな空しく、風を追うようなことであった」ということです。コヘレトの空の

認識は、何かに挫折してふと漏らすような一時的なものではなく、長く、深く、広

い体験と思索の結果得られたもの、また、その結果は王として国を導くための重要

な知見となるものです。

 コヘレトの感じる空しさは、太陽や風、水の流れなど、外界の自然の観察から来

ています。同じことの繰り返しに過ぎないそれらの運行から、「なんという空しさ!」

と嘆くのです。これは、他の聖書の言葉とはまったく違った観察です。「天は神の

栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…話すこともなく、声は聞こえなくても、

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向う」(詩篇19)、「雨も雪もひとたび天

から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂

らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える・・・」(イザヤ書55:10〜13)。

同じ自然の対象物を観察していますが、まったく違った結論がでており、その両方

の観察が、聖書の中で、意味のある、権威のある言葉として語られているのです。

コヘレトの観察は、自然の観察から人間の生きる姿、歴史の観察に移ります。そこ

でも、「かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起

こる。太陽の下に、新しいものは何一つない。・・・昔のことに心を留めるものは

ない。これから先にあることも、その後の世には誰も心に留めはしまい」と断じ、

「なんと空しいことか」と嘆くのです。現代に生きるわたしたちも、このような空

虚感をどこかで感じない人は少ないでしょう。このような空であることへの耐え難

さは、自分という人格の存在の絶対性、永遠性を求めてやまない人間の根源にある

欲求から生じるものと言えるでしょう。しかし、その欲求が満たされることは根源

的に遮断されているのです。「太陽の下には何一つ新しいものはない」確かにそうで

す。しかし、わたしたちは、「太陽の下」にある世界を見ることにとどまらず、その

太陽を創造され、太陽の光の下にすべてを創造された見えざる神を見ることへと促

されます

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