コヘレトの言葉 1:12-18 ; コリントの信徒への手紙一 1:18-25
エルサレムの王、ダビデの子コヘレトは、「天の下に起こることをすべて知ろう と熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」、その結果は、「結局、知恵も知識も狂 気であり愚かであるに過ぎない、と言うことだ」との結論に達します。太陽の下に あるすべてのものの観察は、太陽や風、水などの外界の動きに始まり、人間の社会 と歴史の観察にいたり、そして、それらを認識し判断する知識と知恵についての省 察に及んで、結局は、それらも「狂気であり愚か」と断ずるに至ります。単に怠惰 で投げやりな世捨て人の認識ではなく、真に組織的な構造的な世界認識です。 「コヘレトの言葉」は旧約聖書の中で箴言やヨブ記などと共に「知恵文学」に属し ますが、知恵文学の基本的な考えは、人間が知恵を求め知恵に従って生きることに よって幸福と平安が得られると言うことです。「知恵は真珠にまさり、どのような 財宝も比べることはできない」(箴言8:11)とか、「わたしを見出すものは命を見 出し、主に喜び迎えていただくことができる。わたしを見失うものは魂を損なう」 (同8:35)と知恵の賛歌は謳います。この知恵文学のただ中に、まったく反対のコ ヘレトの言葉が鳴り響いているのです。聖書で語られている知恵は、幅の広いもの で、ものを上手に美しく作り上げる技術、社会や人間を指導し導く力、現実の危機 に対応する力、戦争を勝利に導く力、抜け目のなさ、慎重さ、堅実さなどを意味し ます。それは道徳的な力、敬虔さまでも含みます。「主を畏れることは知恵のはじ め」と言われるとおりです。まさに「知恵によって命を見出す」ことができるので す。現代に生きるわたしたちは、旧約の時代に生きる人々よりも、知恵に対してさ らに大きな信頼を置き、依存しているといえるでしょう。「科学」(science) は 「知る」(scio) ことで、これを得ることによって命を見出すと信じているのです。 しかし、同時に科学により頼んでいる生活の中にも「想定外」のことが起こり、生 活が根底から覆されることにも気づかされます。知恵と知識を救いとして生きるの か、それらを狂気と愚かとして生きるのか、なんと、聖書は両方を併記しているの です。真の救いと命はどちらにあるのか、新約聖書は驚くべき展開を提示します。 主イエス・キリストの十字架の言葉、「神の愚かさ」をもってわたしたちを救いと 命の力を与えようとの神の御心が示され、宣言されるのです。
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